[NO.635] 今日も、本さがし

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今日も、本さがし
高橋英夫
新潮社
1996年2月15日 発行
1996年7月20日 5刷

 この書名を目にして、手を出さないわけにはいきません。読書が楽しみの身にとって、さてつぎは、どんな本に出あえるだろうかと考えることほど、わくわくすることはありません。

 手にしてみると、予想と違って純粋な書評などではありませんでした。もちろん、だからといって悪いわけがありません。充実した内容でした。そのあたりのことが、「後記」にまとめてあります。

p234
後記
 この本は、書物に関するエッセイ、身辺的な雑文や思い出、先人たちの追想、旅の話などを、おおよその部立てを設けて収めたものです。中心をなしているのは書物に関するエッセイですが、これはいわゆる読書随想とはやや異り、文筆生活の中で本をさがす、買う、読む、蔵う、売るといった諸相を語っています。それらも、それ以外の諸篇も、騒然とした今日の時勢では、すべて一場の閑文字にすぎません。
 論に亘るものは収めませんでしたが、それでもいくつか、理屈っぽい文章も入ってしまいました。生地は争われないといった所です。一九九四年の後半、六箇月のあいだ毎週一回、「日本経済新聞」の「プロムナード」欄にコラム風エッセイを連載しましたが、それを機縁としてこういう一冊が出ることになりました。初出の各誌紙の担当者各位と新潮社出版部に感謝します。


 著書による『偉大なる暗闇』についても、p207で触れられています。

 面白かったのが、p97「文学の筆写」。万年筆で原稿用紙に写しているのだとか。吉田健一『金沢』『時間』から始め、小林秀雄『無常といふ事』を終え、河上徹太郎『有愁日記』にかかっているところだそうです。どういう選択の基準なのでしょうか。

 やっと、出典を見つけたか!、と思ったのが、p99「「こと」断ち」の中に見つけた文章でした。好きな言葉、嫌いな言葉についてのエッセイです。

p101
 大槻文彦の伝記『言葉の海へ』の著者高田宏氏が東京新聞に書いた文章によると、大槻文彦は「歴史的」「文学的」などの「的」を認めなかったという。高田氏は それに意義を認めて、『言葉の海へ』では一回も「○○的」という表現を用いなかった、と書いていた。それを読んで私は、小林秀雄氏が戦前に綜合雑誌の論文での異常な「○○的」の濫用を批判していたのを思い出したが、短文ならともかく、一冊の書物で一度も「○○的」を使わないとすると、現代日本語の語彙の組立てからいって、途方もない不自由を嘗めなければならないのではないか、と想像せざるをえない。私も実は似たような問題をずっと考えている。私が、これが なかったら文章は書けないが、これの無意識的濫用は面白くないと前から考えていたのは「こと」という言葉である。

 高田氏が書いたという東京新聞の文章は、さがして読めるのでしょうか。

 終戦直後、不人気だった独文科を選択した理由が、「なるほど」でした。
 また、文学は通過儀礼だったのかと、高橋氏が若いころに文学の影響を受けた友人先輩の実名を挙げて述べているあたり、感慨無量です。