41歳からの哲学 池田晶子 新潮社 2004年7月15日 発行 再読 |
目次
第1章 平和な時でも人は死ぬ
第2章 いったい人は、何のために何をしているのか
第3章 考えることに終わりはない
第4章 なぜ人を殺してはいけないのか
第5章 信じなくても救われる
「週刊新潮」2003年5月1日号~2004年6月3日号まで、「死に方上手」のタイトルで連載したもの。順不同、内容ごとに括ってあるとのこと。
連載時のタイトル「死に方上手」がなんともいえません。昨年、亡くなってしまっただけに、死を迎えようとしているとき池田氏はどう思われていたのだろうか、と考えながら読みました。
p114
人 間が動物と異なるのは、生死の何であるかを考える機能、すなわち精神を所有しているところにある。精神は、誰もが等しくそれを所有して生まれてきたはずのものである。なのに、ほとんど使用されることもなく、どころかその存在すら知られることもなく終了される人生とは、いったい何か。私には、そのような人生は、完全に無内容なものに見える。快楽の追求のためにのみ若さに執着し、中身は無内容のまま年老いたそのような人にこそ、皮肉なことに、「老醜」という形容がふさわしくはないか。
尊敬に値する老人、人生の意味を語れる老賢者はどこにいる。アンチエイジング社会に、そんな人を求めてももう無理である。だから、私は自分で考える。
じっさい、老いるということは、これを否定しさえしなければ、きわめて豊かな経験なのである。四十を過ぎて、私はこのことを実感する。何というのか、この玄妙な味わい、人生の無意味もまた意味のうち、意味でも無意味でもない在ることそのもの、存在と時間、時間の時熟。自身の人生を歴史として味わえる成熟とは、そのまま人類の歴史を自身の人生として味わえる成熟である。この味わい、この思索が、何ともおいしいのである。飽きないのである。このまま六十、七十の歳を迎えるものなら、どのような思索の深みに遊べるものか、ワクワクするところがある。
人生の快楽は、快楽としてむろんある。だからこそ人として生まれて、この快楽を知らずに死ぬのはもったいない。金もかからない。中高年の皆さん、考えることなら、今すぐ始められますよ!
毎度おなじみの池田氏独特の持論とフレーズが溢れています。
今回は、「時間の時熟」なる言葉が目新しいです。こんな言い回しは初めて目にしました。哲学用語にあるのでしょうか。っと思って調べると、やはりそうでした。なるほど。
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