[NO.622] 銀座の学校

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銀座の学校
高平哲朗
廣済堂出版
平成9年10月15日 初版

 面白くて一気呵成に読了。就寝が明け方になってしまいました。それにしても不思議な本。奥付に発行日が掲載されておらず、カバーの裏に出ていました。安っぽい新書じゃあるまいに。

 1995年4月から1997年4月にかけて、『銀座百点』に連載されたものに著者が加筆・訂正したものです。と巻末にあります。

 銀座にまつわる著者の関わりが、それも映画・演劇について自伝としてまとめられています。いやあ、面白かった。幼少時代から「タモリ倶楽部」のころまで、高平氏の記憶をたどった芸能史になっているのです。武蔵高校では景山民夫氏が同級生だったのですね。
 ここに出てくる芸能史は、これまで愛読してきた小林信彦氏の演劇や映画に関連する著書を思い出しながら読んでいました。ミュージカルやもろもろの古き良き演劇関係の話題がずいぶん重複します。

 高平氏といえば、私の中では植草甚一氏が入院先の伊豆から世田谷の自宅に帰ってくるとき、赤塚不二夫氏のベンツを借りて運転したというエピソードを思い出します。どうしても、JJ氏にまつわるエピソードが強く印象に残りました。

p85
 アンカレッジ経由の大韓航空機はニューヨークに、夜、到着した。泊りはタモリ持ちのプラザ・ホテルのツイン。ホテルに入ったとき、ロビーには帝劇の匂いが漂っていた。翌日歩いた初めてのフィフス・アヴェニューは、古い銀座通りを想い出させてくれた。プロードウェイには、日比谷劇場や東劇がたくさん残ってい た。街角には昔の新宿もあった。ニューヨークに来て初めて、なんで植草甚一さんがこの街にこだわるのかが分った。ニューヨークには、古い東京が残っていたのだ。
 帰国後、韮山に療養していた植草さんにそのことを話すと、その通りだという表情をして黙って領かれた。植草さんはあのとき、ニューヨークに銀座と新宿を見たぼくに同調なさったのか、単にニューヨークに行けなかったのが悔しかったから黙っていられたのかいまだに分からない。その年の暮れ、植草さんは亡く なった。

 実にいい話です。なぜ、JJ氏は晩年、あれほどまでにニューヨークへ固執したのか。それはニューヨークの町並みに、かつての古い東京を見ていたのだという指摘。もちろん、高平氏の勝手な思い込みだとしても、納得してしまいました。

p133
 昭和五十二年、三十歳になったばかりの一月半ばに、井家上隆幸さんの手で初めての単行本『みんな不良少年だった』が白河書院から出版された。『宝島』時代の様々なジャンルの人たちのインタヴューと、その後『ムービー・マガジン』に連載させてもらった映画人のインタヴュー二十三人分をまとめた本である。
 一月の末、新宿のモーツァルト・サロンで二百人近い仲間や役者たちが集まって出版記念会を開いてくれた。司会はまだレーバンでない普通の眼鏡のタモリだ。 パーティ終了後の出口で、まるで披露宴の仲人のようにぼくの脇に立って、お客さんを見送ってくれた植幸甚一さんに感激した。


 ここを読んで納得しました。どうして亡くなる直前に病院から自宅へ帰るJJ氏を、高平氏が運転して乗せて帰ったのか、それまで不思議に思っていたのです。初出版記念の会 で、「まるで披露宴の仲人のように」「脇に立って、お客さんを見送ってくれた植草甚一さんに感激した」経緯があったのですね。