大正幻影/ちくま文庫 川本三郎 筑摩書房 1997年5月22日 第1刷発行 再読 |
p325
あとがき
本書は大正期の佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風らの作品を論じた評論集である。
彼らは文学史的には自然主義文学に対する耽美派とまとめられることが多い。現実をリアルに描いたり社会問題と格闘したりするよりも自分だけの小さな部屋で現実とは少し違った淡い夢を見ようとしたためだろう。
私は彼らの「淡い夢」に惹かれた。デカダンス、二重人格やドッベルゲンゲル、水への憧れ、失なわれた美へのノスタルジー、死や神経衰弱との戯れ、映像世 界への惑溺、都市の周縁を歩くひそかな快楽......。「淡い夢」はさまざまな形をとった。それは決して現実と対立する「幻想」という大伽藍ではなかった。現実をとりあえず遮断した小さな部屋で夢見られた「幻影」という小庭園だった。現実の強い光を浴びれば一瞬にして消えてしまいそうな生命力の弱い夢だった。人が夢見ると書いて「儚(はかな)い」と読むが彼らの夢はまさに「儚い」ものだった。隅田川べりの水辺の空間が都市化によってたちまち埋立てられていったように、彼らの「淡い夢」も〝偉大な明治″と〝激動の昭和″にはさまれていつか消えていった。
しかし水が形を変えて流れ続けるように彼らの「幻影」も〝水のイマジネーション″となって作品のなかに消えたりあらわれたりしていった。形を変え、流れの速度を変え、方向を変えたが水の豊かさは変らなかった。作品世界は淡く惨いものだったかもしれないが作家たちの方法意識は強いものがあった。
私は彼らの「淡い夢」「幻影」に心惹かれた。「幻影」がたちあらわれるひとつの場としての隅田川べりの水辺の空間が好きになった。佐藤春夫の「美しい町」や谷崎潤一郎の「秘密」、あるいは芥川龍之介の「大川の水」や永井荷風の「日和下駄」。そうした傑作というよりむしろ小品と呼んだほうがいい作品を繰 返し読んだ。読んだあとに何度も隅田川べりの町を歩いた。彼らの「淡い夢」や「幻影」は大傑作よりもむしろ小品のなかのほうに巧みに姿を隠していると 思った。
現実でも幻想でもない、その中間のあいまいな幻影。現実のなかにも幻想のなかにも強い根拠を持たない幻影。そうした領域に惹かれる心性はある時代の「病 い」と呼んでいいものだろうが、その「病い」は決して否定されるべきものではない。精神分析学者の河合隼雄氏の「病気は体のなかのファンタジー」という言葉は私の好きな言葉のひとつだが、大正期の作家たちも自分の体のなかのファンタジーとしての痛いと親しんだのではなかったか。
本書の大半は季刊誌「アスティオン」に連載したものである。一部「川端康成と映画」に関するものだけは「國文學」(昭和六十二年十二月号)に書いたものである。エピローグとプロローグは新たに書き下ろした。
「アスティオン」誌に連載の機会を与えて下さった山崎正和氏、同誌編集長の粕谷一希氏、サントリー文化財団の今井渉氏、木挽社の藤田三男氏、そして本書を作って下さった新潮社出版部の森田裕美子さんに心から感謝したい。
八六年から足かけ五年にわたる仕事になったが、この期問に本書を書くうえで大きな影響を受けた前田愛氏、磯田光一氏、澁澤龍彦氏が相次いで亡くなられた。この場を借りて亡き三氏に改めて謝意と追悼の意を表したい。
一九九〇年 川本三郎
本書は一九九〇年十月、新潮社より刊行されました。
巻末に掲載している解説が坪内祐三氏のものでした。アーカイブス1へ
コメント