ぼくの血となり肉となった五〇〇冊そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊 立花隆 著 文藝春秋 刊 2007年1月30日 第1刷 |
下記「はしがき」にあるように、『ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎術』『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』に続く3冊目。前2冊は表紙が散佚するまで繰り返し読みました(よくいうとこうなりますが、裏を返せばそれだけ邪険に扱ったともいえます)。待望の3冊目。けれども、いつのまにか熱は冷めています。
p7
はしがき
本書の骨格部分は、「週刊文春」に連載された「私の読書日記」の二〇〇一年三月十五日号から、二〇〇六年十一月二日号までを収録したものである。
それに加えて、本あるいは読書にかかわるかなり長い序論を加えた。
同じ趣向の本として、これまで出したものに、『ぼくはこんな本を読んできた 立花式読書論、読書術、書斎術』(「私の読書日記」一九九二年~一九九五年)と『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(「私の読書日記」一九九五年~二〇〇一年、ともに文春文庫)の二冊があ る。これはその三冊目で、『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』というタイトルをつけたが、このタイトルは比喩的な表現である。
文字通りそのようにカテゴライズできる本を、五百冊と百冊紹介したわけではない。実際にはそれよりずっと多い本が紹介されている。そのうちまじめで硬い本と、あまりまじめでないやわらかい本がおよそ五対一くらいの割合でまじっているということである。
序論で紹介されている本は、基本的にぼくが昔読んだ本であって新しい本ではない。「私の読書日記」のほうは基本的に新刊書だから、この点において著しい対照をなす。昔の本であっても、新版の形でいまも入手可能なものもあるが、そうでないものは、古書市場で手に入れるしかない。いまはインターネットで検索してみれば入手可能性がすぐにわかる(注・「日本の古本屋」 http://www.kosho.or.jp/もしくは「スーパー源氏」 http://sgenji.jp/ 新刊書ないし比較的最近のものに関しては「アマゾン」http://www.amazon.co.jp/で検索すれ ば、大抵のものは入手できる)。
さてまず、この本に何を書いたのか簡単に述べておこう。この本はぼくの読書遍歴を、ぼくのしてきた仕事の歴史にかぶらせる形でつづったものである。ぼくの仕事というのは、著述業である。いわゆるもの書きである。ものを書くためには、その前提、準備として、必ず読むという仕事をともなっている。
ぼくがよくいうことだが、いいものを書くためには、IO比(インプットとアウトプットの比率)を一〇〇対一くらいに保つ必要がある。つまり、一冊本を書くためには、百冊本を読めということだ。ぼくはかれこれおよそ百冊の本(含む共著)を書いてきたが、その百倍の一万冊くらいの本はたしかに読んでいる。
この本は、はじめ編集者の思いつきのタイトルからはじまった。それは単純に、「ぼくの血となり肉となった五〇〇冊」というものだった。そのタイトルを聞いて、それは面白いかもしれないと思って、まず第一稿を書きだしてみた。本当に、自分の血となり肉となった本の総合カタログを作るつもりだった。
しかしじきに、そんなことはとてもできないということがわかった。第一に線の引き方がむずかしい。血肉になった書と、そうでない書の間に線を引くことがそう簡単にできない。
多くの書が両義的である。一読してその書に共感するところが大きかったが故にそれが即自分の血肉化する書になった場合もあるが、一読したときはその書に激しく反発し、そうであるが故に逆にその書から大きな影響を受けた場合もある。そのような内的葛藤を経たが故にその書がよりしっかりと血肉化する場合もあ るということだ。
第二のむずかしさは、書物から受ける影響というものが、それを読んだときの自分の状況と切り離すことができないということからくる。それを読んだとき、 自分は何歳くらいで、何を考えていたのか。どういう環境下で、どういう必要性があってその本を手にとったのか。そして、その本を読む前後、他にどういう本を読んでいたのか。その本は自分の精神形成過程のどこに、どのようなコンテクストではまりこんだのか、といったことを考えあわせてみないと、一冊の書物
が自分に対して持った影響を正しく評価することができない。
第三に、いざ書物のリストアップをはじめてみると、とても五百冊では足りないだろうということがすぐにわかった。そして、五百冊を本格的に語りだしたら、とても一冊の本におさまりきれない分量になるだろうということもすぐにわかった。
たしかに、自分の血肉になったといえる書物は沢山ある。しかし、そのすべてをリストアップし、その一冊一冊について、その出会いを語り、その本のどこが自分にどのように吸収され、どのような影響を与えることになったのかといったことを詳しく語りはじめたら、おそらくほんの十冊か二十冊について語るだけで、一冊の本を必要とするだろう。
そういうわけで、この本の序論部分は当初のプランを変えて、大きくちがう二つの部分にわけることになった。
前半は、私の人格形成期の中でも特に重要と考えられる二十代後半から三十代前半に焦点をあてて、その間に出会った何冊かの私に大きな影響を与えた書物との出会いについて詳しく語っている。
序論の後半は、人生のさまざまな時期に出会った、さまざまな面白い書物について、アトランダムに、そしてザクツと、一端千里に一気語りをしている。この部分は、ネコビル(19ページ参照)の中で、マイクをつけて書棚の前を歩きながら、目の前にならぶ本の思い出をしゃべりまくったことがベースになってい る。ここはあくまでも、偶然性による出会い(そのときたまたま視野に入った本)に従って語っているのであって、その領域の本について組織的にかつ網羅的に語っているわけではないことにご留意いただきたい。この分野の本について語るなら当然この本を入れるべきだと考えられる本(いわゆる必読書)が種々の事情 によって沢山落ちているはずである。必読書を調べる方法はいくらでもあるから、そういう情報がほしい人は各自しかるべき手段をとり、ここでは偶然の出会いを楽しんでほしい。
序論の前半部分も、実は同じようなことをするところからはじめている。ネコビルには、仕事ごとに集めた本がブロックになっている部分が多いから、歩きまわれば、自然に仕事の歴史に出会えるようになっているからである。ということで、この序論部分は全体を通して、ネコビルの中を歩きまわりながら語りおろしたという形式になっている。しかし前半部分はそれで終わりにせず、あとから丹念に手を入れた。他の資料から得られたことも沢山そこに書きこんだりしたの で、情報密度において後半部分とは全くちがう仕上がりになっている。
前半部分で、二十代半ばから三十代半ばにかけての時期に焦点をあてて、詳しく語ったのは、その年代に私はいちばん真剣にいちばん多くの本を読み、本格的な人格形成を行ったと思うからである。
具体的には、それは二十四歳で大学を卒業して文春に入り、三十四歳で「田中角栄研究」を書くにいたるまでの十年間を指す。
その十年の間に、私はせっかく入った文春を辞めて大学に戻ったり、はたまた大学をやめてもの書きになったり、もの書き稼業を捨てて、新宿でバーを経営したり、かと思うと、何もかも捨てて、中近東とヨーロッパを放浪する旅に出たりと、あまり尋常ではない人生の軌跡をたどっていた。
その十年の間に、私ははじめての著書『素手でのし上った男たち』(番町書房、写真55ページ)を上梓し、つづいて第二の著書『思考の技術』(日経新書) を出版した。またこの時期にゴーストライターとして、香月泰男名で『私のシベリヤ』(文勢春秋)を刊行したし、立花隆とは別のもう一つのペンネームである菊入龍介名義を用いて『日本経済・自壊の構造』(日本実業出版社)という本を出した。
同じ十年間に、立花隆名で「文事春秋」「諸君!」「潮」「週刊文春し「週刊現代」などに、多数の雑誌記事を書いたが、実は、全くの匿名で、その何倍もの原稿をさまざまの週刊誌、月刊誌に書いていた。
そのような文筆活動を通して徐々に活字の世界で立花隆の名が知られるようになっていったが必ずしも世に広く知られるようになったわけではない。しかし、三十四歳のときに書いた「田中角栄研究」によって人生が一変した。
ということは、二十四歳から三十四歳にかけての十年間を一言で表現すれば、「田中角栄研究」以前の十年間ということである。
その十年間は若干のアウトプットもしていたが、圧倒的な時間をインプットにさいていた。生活環境は次々に変わっていったが、とにかく読書にさく時間がいちばん多かった。
つまり、私の血肉になる読書の大半は、この時期になされたのである。それがこの時期に焦点をあてようと思った最大の理由だ。
もちろん、それ以前の、少年時代から大学生にいたるまでの時期も沢山の本を読んでおり、それはそれで私の血肉となっていたわけだが、その時期に読んだ本については、すでに別のところで書いている(『ぼくはこんな本を読んできた』)ので、ここでは省略する。
ぼくの二十代から三十代前半にかけての時期が、どういう時期であったか、一言で表現すれば、ぼくの「青春漂流」時代だったといってよい。拙著『青春漂流』(講談社文庫)に書いたことだが、人間誰しも、青年時代前半までは、自分の生きるべき道がなかなか見定まらず、迷いと惑いを重ねつつ生きているもので ある。どこかでその漂流が終わり、そのとき流れ着いた土地で、地に足を着けた生活をはじめる。それが青春漂流期から青春定住期への移行である。
たいていの人は二十代前半で大学を出て就職することによって仮の定住地を定める。その定住地で職業人として十年が経過すると、たいていの人はそれぞれの領域で一人前の人間になる。一人前の人間になったときが、青春期の終わりで、成人期のはじまりである。それは本格定住期のはじまりといってもいい。
たいていの人は、おおむねそれと同じ時期に、伴侶を見つけて、家庭を持つ。パーソナルな生活においても、漂流をやめて本格的な定住生活をはじめるわけだ。
ぼくの場合は、そのような標準的なライフサイクルとは、いささかずれたサイクルをたどってきた。なぜかというと、さきほど述べたように大学を出て文藝春秋という出版社につとめたものの、二年半で会社を辞め、もう一度学生に戻ってしまったからである。ぼくの本格的な青春漂流期はむしろここからはじまる。
つまり、一度は社会に出たものの、もう一回自分で人生双六の「ふり出し」にもどってしまったのである。なぜそうしたのかは、『立花隆のすべて』(上・ 下、文春文庫)におさめられた、文春社内報に執筆した「退社の弁」に書いたことだが、要するに「もっと本を読みたい」の一言につきた。
思う存分本を読んでいた学生時代の生活環境から、急に、「本を読んでばかりはいられない」生活環境に突き落とされたときの精神的飢餓感に耐えられなかったということだ。
文春を辞めたとき、自分のその後の人生設計などなにも考えていなかった。
とりあえず、学士入学で哲学科に入ろうと思っただけだった。哲学科に入ったのは、会社勤めをはじめるようになってから、自分がいちばん飢餓感を感じていたのが、その方面の読書だったからだ。ぼくは仏文科を卒業したというものの、卒論はメーヌ・ド・ビランという十八~十九世紀フランスの哲学者について書いたくらいで、もともと頭の半分は文字通り哲学に傾いていたのだ。
学士入学にペーパーテストはなく、書類審査と面接だけで選抜されたと記憶するが、哲学の主任教授から面接でしつこく聞かれたのは卒業後はどうするつもりなのかということだった。正直にいうと何も考えていなかったが、あまりしつこく聞かれるので、いちおう大学院に行くつもりでいたからそう答えた。
面接した教授は、せっかく文春のような有名企業に就職できたのに、それを退職して哲学科に 以下略
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