内田魯庵傳 野村喬 株式会社リブロポート 1994年5月16日 第1刷発行 |
たっぷり読みでがありました。460ページ。巻末に詳細な「内田魯庵年譜」。面白く読みふけりました。
p82
が、 魯庵が後年言うように「純文藝は鴎外の本領では無い。劇作家又は小説家としては縦令第二流を下らないでも第一流の巨匠で無かった事を肯て直言する。何事に も率先して立派なお手本を見せて呉れた開拓者では有ったが、決して大成した作家では無かった」という可成り正鵠を射た評価は既に持合せていたと考えられ る。露伴評価の総決算をついに魯庵は書かなかった。「露伴が死んだら書くよ」と晩年語ったそうだが、それはついに現れなかった。魯庵が露伴に十余年先んじ て白玉楼中の人となったからである。
p423
明 治期から大正期に移り、さらに関東大震災後、都市の知識人の間に書物蒐集が普及して行った。その一例が、大正十四年十月に斎藤昌三の始めた『愛書趣味』と いう雑誌だったり、昭和六年創刊の『書物展望』だったりした。また、大阪の荒木伊兵衛が発行した『古本屋』も注目すべき古書趣味の雑誌だったりした。それ に刺激されて、あちらこちらで古書店の日録も整備されて行った。こうした趣味が高ずるところ、旧来の蔵書印に飽き足らず(理由は蔵書を汚すからである)、 エッキス・リブリスすなわち蔵書票の流行につながった。魯庵は自身でも数種のエッキス・リブリスを作ったし、「蔵書票」(『中央公論』昭3・11)のよう な随筆を書いている。その実物をわたしも持っているのだが、お見せ出来ないのは残念である。
魯庵は、「借家住ひをして一番苦勞するのは書籍である」(「移轉記」『女性』大14・5)と記している。昔、三鷹に転居される以前の家を訪問して、談話 たまたま羅災された本のことに及んで柳田泉から聞いた話だが、魯庵の家にも無理算段して購入した貴重書がなくはなかったが、常に家に置いてあるのは三千な いし四千冊程度で、恬淡と言うのか、本で一杯になると、古本屋を呼んで、一つ二つの本棚架蔵の書籍をひと思いに売ってしまうのを目撃したことがある。そう でもしなければ、住んでいる場所がなくなる、と平気だったとのことだった。わたしなどは、なかなか、それが出来ないで苦しんでいる。こんな話の中にも魯庵 の真骨頂があるだろう。
つまり、魯庵にとって、蔵書は所蔵者が文化的貢献を目的にするから結構なのであり、さらに愛書趣味は結構なものだが、それは結局のところ、文化的享楽に 尽きると考えていた。「讀書といふと依然草間の鳥や教訓の鳥とばかり思ふ考が今だにコビリ付いている」「今日の讀書家といふは大部分が壮年或は青年にて、 五十年配以上の大多数は学者の階級を外にしては讀書に縁の無い人々である」「今日の文化生活上の讀書といふは決して単なる草間の鳥や修養の鳥でなくて、文 化生活の必然的要件なる知識的レフレツシメントである。讀書は決して堅苦いものでも肩の凝るものでもなくして必然的に文化生活にともなふ知識慾を満足させ る享欒の一つである」(『東京日日新聞』大13・11・7~8)と述べた通りを魯庵は実践していた。
p416~420
関東大震災の年、大正12年9月1日の一か月前に魯庵の自宅となりへ越してきたのが大杉栄と伊藤野枝の家族だったとは、知りませんでした。いわゆる甘粕事件について、隣家の住人としてどうかかわったのか、書かれています。
コメント