[NO.453] 最後のひと

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最後のひと
山本夏彦
文藝春秋
1990年1月1日 第1刷発行
1991年1月20日 第4刷発行

再読

●初出
原題「流れる」
「諸君!」昭和63年8月号~平成元年11月号

目次
靴下だけはいてあとまる裸/露伴一族はえらい人ばかり/流行はすべて梨園から出た/親不孝を売物にする時代/あたりを払う威厳があった/何やらただならな い人ごえ/なあんだもとは高利貸/悪魔!と何度も罵っている/苦界(くがい)じゃえ許しゃんせ/運転手日くOLに処女なし/色白く丈高き女子なりき/そだ てられた大恩がある/美食家というよりうるさ型/作者茉莉と作者鴎外は別人/デコルテほど浅間しきはなし/話は「『いき』の構造」で終る/おわりに

おわりに
 この物語は九鬼周造の「『いき』の構造」にはじまる。いきは花柳界から生れ花柳界と共に亡びた。故に「諸君!」連載当時の原題「流れる」を「亡びしも の」にしようと、ためしに「かたはらに秋草の花語るらく ほろびしものはなつかしきかな」という牧水(若山)の歌を知るかと聞いたら、二十代の男女の過半 は知らないと答えた。「敷島の道」も亡びたかと急いで題を「最後のひと」に改めた。
 漱石鴎外は漢籍の素養ある最後のひとである。晩年の漱石は漢詩を作って楽しんだが、数ある漱石の弟子たちでその衣鉢(いはつ)を継いだものは一人もな かった。谷川徹三は九十歳になんなんとしても漱石鴎外のように老成できないのは、漢文の素読(そどく)を受けていないからだと述懐した。私たちの父祖は東 洋の古典を捨て、西洋の古典を得ればいいと思って、その双方を失って骨のない男になってもう六、七十年になる。
 ついでに女は針と糸を持たなくなった。料理をつくらなくなった。衣裳はブティックで惣菜はパックで買うようになった。針と糸なら、また庖丁なら持たせて みよ、子の看病ならさせてみよと幸田露伴の娘文(あや)は昭和二十六年冬、子細あって柳橋の芸者屋に女中奉公して芸者という玄人(くろうと)代表に対し て、素人代表としてひとりでにらみあったが、これは少女のころ露伴にきたえにきたえられたから言えたので、いま言えるものはない。
 男は大正十二年の震災以来、女は昭和二十年の戦災以来着物を着なくなった。いき、婀娜(あだ)、伝法などは着物と共に亡びた。
 鴎外の娘茉莉は七つの帯解の祝いに鴎外が選んでくれた縮緬の着物の肌ざわりをおぼえている。湯上りの肌にそれはつめたく、重く、包むように感じられた。その感触を描いて絶妙だったから、私は茉莉を着物を知る最後のひとの一入に数えていいだろうと数えた。
 幸田文はいま亡びようとする花柳界を女中の目で「流れる」という小説に書いた。この「流れる」を中心に私は行きつもどりつして、亡びた教養のしんがりを つとめた人たちに勢揃いしてもらった。俗に「断絶」といわれるものは明治にはじまっていま終ったところである。したがってここに書いたものはすべてアク テュアルだと思っている。話は九鬼周造の「『いき』の構造」にはじまって、あらぬところをさ迷いつつようやく「『いき』の構造」で終ることができた。やれ やれと云爾(しかいう)。
                            平成二年秋 著者


 頻出するのが幸田文と露伴について。さらに『流れる』に描かれた柳橋の芸者屋の様子へと話はとびます。鴎外と二人の妻との関係、さらに森茉莉の結婚についてまで言及。

p136
 何度も言うが戦前と戦後の大きな違いは、戦前はあった素人と玄人の区別が、戦後はなくなったことである。
 山本夏彦は続けて「昔は役者には役者の子がなって、素人がなることはなかった。」という。役者と芸者との間柄など、現代では理解できないかもしれません。さらにそこへ相撲取りまで入ってくるのですから。