[NO.448] 白樺たちの大正

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白樺たちの大正
関川夏央
文藝春秋
2003年6月30日 第1刷

p438
本 書は、「文學界」1998年3月号から10月号まで「窓外雨蕭々」(武者小路実篤の「新しき村」と大正時代)として連載された作品と「文學界」1999年 7月号から2002年6月号まで(うち2000年4月号、2001年5月号、6月号、10月号、11月号を除く)「白樺たちの大正八年」として連載された 作品を合わせ、加筆・再構成したものです

 序章のタイトルが興味を引きました。タイトルは「明治十五年以後生まれの青年」。
p91
 志 賀直哉にしろ武者小路実篤にしろ、自我を圧殺するもの、彼らの「わがまま」を抑圧する装置を徹底して嫌悪し憎悪した。それこそが、『三四郎』や『坊ちゃ ん』の主人公と同年代の知識青年の、そして大正という時代の精神形成をにない、同時に大正という大衆化の時代の影響を受けざるを得なかった「明治十五年以 後生まれの青年」のセンスであった。
 自我を圧殺するもの、彼らの「わがまま」を抑圧する装置とは、すなわち軍隊。

p421
終章 ものみな「歴史」となる
 昭和三十一年春、近代文学がいまだ日本人の「教養」の必須科目と考えられており、近代文学の故地を訪ね歩く「文学散歩」の書き手として、当時知られていた野田宇太郎氏が、日向の新しき村を訪問した際の記述が紹介されています。
 そこに住むのは、杉山正雄と武者小路房子のふたりだけ。電気も通わないランプ生活。このとき彼らだけの村の生活は、すでに十七年におよんでいたといいま す。戦前、電力を得る名目などの国策によってダムが作られ、武者小路実篤自身が村を放棄したのが昭和十三年。
 野田宇太郎氏からの引用を孫引きすれば
「武 者小路姓を今でも名乗る房子さんが老媼となり、杉山氏もいい加減に老人となって、やはり黙々と、あの大自然の中に埋もれて生活をつづけているのである。し かも、いまだにこの奇妙な夫婦は『新しき村』をもって自ら任じているのである。大自然の中であくまで信念に生きていると云えば立派だし、この夫婦もそう信 じたいと願っているようだが、私のような裟婆臭い生活者の眼から見ると、全く気の毒な狂信者であり、まちがった人道主義の犠牲者だとしか思われない」
「これは昭和奇談の新姥捨山と云う感じを私は覚えた」
 野田宇太郎は、「恐ろしい断崖の上の孤島の生涯」を送りながら、自分の話に「東京の思い出をむさぼり食う」房子を、昭和三十一年当時の流行語で「現実生活の地平線を失った気の毒な人」と形容した。


p435
あとがき
 武者小路実篤の名を聞いただけでみなが微笑したのは、いつの頃までであっただろうか。微笑には軽侮のかげりが見えた。「白樺」というとまた笑った。「白 樺派みたいだね」といえば、甘いとか、お坊っちゃんのお人好しとか、能天気な理想主義とかいう意味の、からかいや嘲笑を意味した。
 志賀直哉とロにすれば「小説の神様」という言葉がはね返った。それは『小僧の神様』をもじった地口にすぎなかったのに、そんなにエライのかという反発に彩られていた。のみか、志賀直哉が日本の小説を駄Rロにしたのだと青年は息まいた。
 そんな、条件反射のような会話を一九六〇年代の高校生はよくした。彼らはたいてい、五〇年代末か六〇年代はじめに小学生であったとき、実篤の『真理先 生』や『馬鹿一』をジュニア版文学全集かなにかで読まされて、なんてばかなことを書く大人がいるのだろうと思い、直哉の『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』 では、こんな話のどこがおもしろいのかわからないと嘆いた経験を持っていた。コドモとはいつの時代でもそういうものである。そして六〇年代とはそういう時 代であった。
 しかし、七〇年代には「白樺」という言葉を口にする人自体がまれになった。八〇年以後は、まず聞いたことがない。もはや子供の 「教養」として文学を読ませる習慣は絶えたのである。
 だが長じて日本近代史を調べながら読むとき、すなわち文学は文学である以上に歴史史料であると考えながら読むとき、彼らの作品の相貌はおのずと違って見えてくる。「白樺」グループもおなじであった。
 実篤は大正という一時代の革命者のひとりであり、直哉はその時代思潮の最先端の体現者であった。ふたりの軌跡をたどりながら、その周囲にいた作家たち学 究たちを見つめ直せば、彼らもまた時代精神のにない手としてにわかに立体的に結像してくるのである。私は、大正人のなした仕事と、大正人が生きた時代をお もしろいと思った。そうして彼らを、あたかも同時代に生ける人のごとく感じるようになった。
 半分大正人と化した私は、「白樺」グループ、なかんずく実篤と直哉を中心に据えて、特異な側面からの時代の物語を書きはじめた。できる限り後世からの評 価をくだきぬように、できる限りその時代に身と心を置くようにつとめたが、才およばず、作業はなかなかたやすくは進まなかった。
一度「文学界」誌上に連載したものの中断、一年以上のブランクを置いて出直した。たのしみながらも苦労して書きついだ結果、なんとかいまあるごとくのかたちをなした。

以下略