[NO.426] 元祖テレビ屋大奮戦!

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元祖テレビ屋大奮戦!
井原高忠
文藝春秋
1983年10月20日 第1刷

目次
序章 テレビは縁日の夜店だ
第一章 何でもカッコからはじまる
学生時代とウエスタン・バンド
日本テレビ開局の頃
『ニッケ・ジャズ・パレード』と照明について
怒鳴る、怒る
第二章 アメリカ行きが仕事を変えた
初のアメリカ旅行
テレビ・スタジオについて
バラエティとミュージカル
『光子の窓』の出演者と作家
『光子の窓』の構成とタイトル
第三章 公開番組は接客業の一種
『スタジオNO・1』と『あなたとよしえ』
『九ちゃん!』と公開放送の前説
『九ちゃん!』の構成について
『11PM』と大橋巨泉
第四章 テレビ人間に合った番組作り
『ゲバゲバ90分!』の発想
『ゲバゲバ90分!』の舞台裏
『ゲバゲバ90分!』の出演者とシステム
失敗した二本の番組
さまざまな事件
第五章 テレビはほんとにおそろしい
決戦!! 渡辺プロダクション
ピンクレディーとレコード大賞
ユリ・ゲラーとオリバーと『24時間テレビ』
第六章 五十まで生きたらあとはオマケ
サラリーマンと組織
日本テレビ退社とハワイ
終章 現在のテレビに言いたいこと
あとしゃべり
井原高忠主要番組リスト
題名索引
人名索引

 民放スタート時に日本テレビへ入社した井原氏の一人語り。巻末に、題名と人名の索引。あまりにも有名で基本図書みたいな本でしたが、やっと読めました。 終わりにいくにしたがって、つまらなくなったようです。井原氏がしゃべった内容をまとめたものだそうです。それだけに読みやすくできています。

 出だしから快調。井原氏にとってのTV論、明快です。
p8
 僕にとって、テレビ番組作るってのは、最大のホビーだったわけです。
 煙草や酒、ゴルフ、麻雀等をしない。そういうものは仕事でたまったストレス解消やエンジョイしたりするため。ところが井原氏にとって、テレビ番組を作る ことが最大のホビーだったから、うさを晴らす必要がなかったのだといいます。まるで、株屋の大親分が部下に「こんな大きなバクチがあるのに、どうしてパチ ンコや競馬なんぞに手を出す必要があるのか」と言ったという逸話を思い出させます。
 また、テレビ番組を作ってきて、「こんな面白いものはなかった。」とも。ただし、「で、こんなつまんないものを見る人の気が知れない。僕はテレビって本 当に見ません。只でひねって出てくるものにそんないいものあるわけない。」とも。このあとに続けて「これはまあ僕一流のパラドックスですけれどもね。」と 断ったうえで、「やっぱり平均化されたものだから、誰の趣味嗜好にもぴったりは重ならない。どっかで妥協してもらわないと。だから本当に好きなものは、演 劇だろうと、シンフォニーであろうと、オペラだろうと、歌舞伎だろうと、寄席だろうと、絶対自分で金を払って行くべきものですね。」


 日本人て、まじめなのかバカなのか知らないけど、よく「テレビを見て勉強する」って言うでしょ。僕に言わせりゃ、ただでひねって勉強しようってのは図々しいね。勉強ってのは月謝を払ってするものだから、テレビに期待しちゃいけないですよ、見る側は。
 実に徹底しています。TVは縁日の夜店ですから。あやしい出し物であってあたりまえなんですね。矢追純一氏のユリ・ゲラーやオリバーくんも面白がっていればいい、ということだそうです。
 ただし、24時間テレビで募金が集まったことについては、恐ろしいと表現しています。p230でも、ヒットラーの演説とからめて繰り返し恐ろしいと。

 本文は時間順に配列されています。1929年生まれの井原氏の出自は三井だそうで、ずっと初等科から学習院、大学は慶応。そのへんの理由は武勇伝として説明。 学生時代は音楽演奏(楽隊と呼んでいます)に明け暮れていたとか。定番ですね。
p21
(軍国少年だった、ということにつなげて)ところが、戦争に負けて、アメリカ軍が来てみると、シャレてるわけですなあ、敵は。いい服着て、おいしい物いっぱい持っててね。それで突然、体当たりから、進駐軍万歳! になっちゃった。
 昭和三、四、五、六年に生まれた人間は、考えることがみんな似てましてね。アメリカに「ごめんなさい」って負けちゃった以上は、もう恐れ入って言うこと 聞こう、って感覚があるのね。昭和二年までの世代っていうのは、大正の人に近くて、昭和七年から先はまた、全然違う人種になるというのが僕の考えですが ね。


p22
(チャックワゴン・ボーイズとカントリーについて)
 カ ントリーをやったっていうのは、当時、日本に進駐してきた兵隊が、オクラホマとかテキサスとか、全部、西部の師団だったからです。だから進駐軍へ行ってカ ントリーやるってのは、新潟の師団へ行っておけさをやるようなもんで、故郷の歌だからウケないわけがない。しかも、そこらへんのいいかげんな歌と違ってき ちんとした英語でしょ。うけて、もうかっちゃってね。
 聞いたことがあるようでいて、存じませんでした。戦後初期にカントリーが流行った理由。勘を働かせれば、なるほどというところです。日劇ウエスタンカーニバルなんぞも、このあたりが起源なのでしょうか。
 カントリーとジャズとの、とらえ方の違いも面白いです。カントリーがコード四つしかない、というのがなんともはや。


 いくらもうかるといったって、カントリーだからね。コード四つしかないんだから。これをいいトシしてやってられますか。
 日本人がテンガロン・ハットかぶって、カウボーイのかっこうするのは、やっぱり学生でまだかわいいところがあるから見られるんで、いい年した大人がやったらちょっとへんなわけよ。ま、やってる人がいるから、こんなこというのはマズイかもしれないけど。
 ジャズだったら大人になってもずっと続けるのはわかるけどね。だから、僕は大学はちゃんと出て、ちゃんとした就職をしようという方針は捨てなかった


p120
 こ の二年何にもしないというものこれがまた、一つの世渡りの方法なんです。人間ダメだ、っていうと焦るのね。そして焦っていろんなことをすると、かえってコ ケるわけですよ。それで再起不能になってしまうんだけど、ぼくの場合は、こらいかんわ、となるとまず何もしなくなる。亀みたいになって引っ込んじゃう。うどん喰ってふとんかぶって、寝ちゃおう、って精神になる。だから僕、なにもしないっていうのはわりに平気なの。そして、そろそろ運が向いた頃に、また仕事を始めるから、コケる率が少ないんです。
 この「うどん喰ってふとんかぶって、寝ちゃおうという言い方、フレーズは新鮮でした。出典、どうなっているのでしょう?

p136
 次の『九ちゃん!』となると、とても自分で作るというわけにいかないので、構成、フレーミングだけは僕がやりましたけど、あとは作家が大勢入って来たわけ。
 このときの作家が、今をときめく中原弓彦(小林信彦)さん、もはや大文豪の井上ひさしさん、河野洋さん、城悠輔さん、山崎忠昭さんの五人です。これをフェアモント・ホテルにカン詰めにして二本分いっぺんに書いてもらった。

 小林氏と井上氏が同室で缶詰とは。

p140
 そ の"てんぷくトリオ"と内藤陳の"トリオ・ザ・パンチ"ってのが出演候補で、どっちにしようかということになった。中原さんは"トリオ・ザ・パンチ"がい い、と言ったんだけど、僕は"てんぷくトリオ"に決めたのね。"トリオ・ザ・パンチ"は、メンバー・チェンジも激しかったし、結果的に"てんぷくトリオ" のほうが安定感があった、ということを中原さんも後で何かに書いています。
 "てんぷくトリオ"のコントは、井上さんが書いた。これは『九ちゃん!』以降もしばらくやってたんです。井上さんの書いた"てんぷくトリオ"のコントを集めた本も出ているくらいですよ。


p141
『九 ちゃん!』という番組で印象深い人物には、他に伴淳三郎さんがいますね。第一回目のゲストが伴淳さんで、それ以後も何度も出てもらいました。伴淳さんとい うのは何と言ってもアジャパーでスターになった人ですけど、その後『飢餓海峡』とかいい映画(しゃしん)とったりして、どんどん偉くなってくるから、ア ジャパーやるのはいやなんだ、ほんとうは。
 ところが、中原さんも好きだから、どうしても、アジャパーやってくれって言う。それでもやっぱりいやなんだ。結局、妥協案として、"てんぷくトリオ"が 「アジャー」って言うと、伴さんが「パー」っていう、ってことで折合いがついた。くだらないけど、おかしいでしょう。

 やりますねえ、中原弓彦氏こと小林信彦氏。

p148
巨泉っていう人は、普段からあのテレビに出ている通りなんですよ、あれが地のまんまなんです。
 僕はテレビってのは、地のまんま出せる人が勝ちだと思ってるから、そういう意味では、巨泉は絶対おもしろい。
 タモリとか、山下洋輔なんていう人が、今ひじょうにおもしろがられているけれども、じつはあの面白さは楽隊芸そのものであって、戦前から脈々と楽隊に流れてるものなんですよ。


p185
 で、この『スーパースター8逃げろ!』は井上ひさしさんと組んだ最後の仕事です。井上さんは、まだ直木賞とる前だったけれども、テアトル・エコーの方が忙しくなってきて、テレビの方はやめかかっていたんです。

 楽屋裏の話では、面白さとして『ゲバゲバ90分』が一番でした。昭和三十年代の話では、ヘレン・ヒギンズ。