古本マニア雑学ノート/人生に大切なことはすべて古本屋で学んだ 唐沢俊一 ダイヤモンド社 1996年3月26日 初版発行 |
p152
蔵書を売るときの、古書マニアの鉄則というものがある。カストリ雑誌研究家の長谷川卓也氏の著作で知った。
「全集ものとか、まともな本を売り、クズと思えるものを残せ」
ということである。たいていの人は、装丁などの立派なものを残し、雑本から売る。実は、まともな本、全集などのタグイというのは、読もうと思えば、どこ でも読めるのである。図書館にはそういうものはたいてい置いてあるし、また誰かが必ず持っている。どこにあるか、だけ押さえておけば、読みたいときはそこ へ行って読めばいい。全集ものを参照することなど、年に一度、あるかないかである。
そこへ行くと、雑本のタグイは、いったん手放すと、まず再び手には入らない。古書店の目録にも載らない。こういう本こそ、貴重と言うべきなのだ。
お説ごもっとも。有名作家の個人全集(全巻揃い)であっても、購入価格の数分の一程度にしかならない古書価なんて当たり前のご時世。しかも現在であっても簡単に入手できてしまうことも。
それよりも、ここで引用されている「長谷川卓也」氏というお名前が懐かしい。長谷川氏のお書きになった『面白本念入りガイド』(徳間書店)を持っていたはず。70年代だったか80年代だったかに、『本の雑誌』でよくお名前を目にしました。
p178
まったく、二〇年も古本屋さん通いを続けていて、何をやってきたんだか、と、他人に自分の貧架(この言葉、松本清張氏の日記で覚えた)を見られる度に恥ずかしさで身がすくむ思いをしている。
しかし、これは、僕が世の中の価値観に左右されずに、ひたすら自分の読みたい本、というものばかりを目当てに本集めをしてきた結果、と言えるのではない か、とこのごろ開き直るようになってきた。世の中でどんなにもてはやされようが、自分にとって価値のない本には見向きもしていない。自分にとって価値のあ る本とは、自分が読んで面白い本のことだ。ついでに、これを敷衍するなら、自分にとって究極の面白い本とは、自分だけが楽しめる、自分以外の人間にとって はさっぱり面白くない本、ということになる。
p181
こ れは、小学校三年のときに図書委員をおおせつかって以来、中学・高校とずっと図書委員をつとめて、全校生徒に読書感想文を書くことを強制してふるえあがら せた僕が言うのだから間違いないと思っていただきたいが、本というものは、決して人生の指針になったり、教養を深めたり、人格を研磨したりするためにある のではない。本は楽しむためにあるのである。楽しむためのものなら、くだらないに越したことはない。そういう本こそ、実は本の中の本なのだ。
僕が本を選ぶ基準は、だいたい次の三点である。
1.読んで実用にならない
2.読んで害がない
3.読まなくても差し支えない
僕はこの三点を満たした本を「脳天気本」と名付け、読書本来の無目的性を取り戻そう、という運動をあちこちで呼びかけている。
p224
「......じゃあ、あなたは何のために本や古いフィルムを集めていらっしゃるんですか」
と聞いた。
「......うーん、まあ、病気だね」
「病気?」
「そう。古いものに目の色を変えて集め回るというのは、これは病気ですよ。病気になったら、高いと思っても、おクスリを飲まなくては仕方ないでしょう。古本屋は病院、古本はおクスリと思って、私は集めているんですよ」
このエピソードは、後日、別の本でも紹介されています。杉本五郎氏の言葉。
どうやら、赤瀬川原平氏によって紹介された、中古カメラ収集家たちによる同様の言葉は、杉本氏の方が先でしょうか。
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