[NO.411] 新潮3月号/第104巻第3号/四方田犬彦「先生とわたし」

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新潮3月号/第104巻第3号
新潮社
平成19年3月1日 発行
四方田犬彦先生とわたし
長編評論(400枚一挙掲載)

 あちこちで、いろいろ論評が出ていましたので、「先生とわたし」を読んでみました。由良君美氏に関する内容。以前から、由良君美氏については興味があり ましたが、四方田犬彦氏が由良氏のお弟子さんだとは存じませんでした。それにしても、四方田氏の書かれたものに関して、酷評はすごいですね。
 お二人の交流についてという書き方をとっていますが、大半は由良君美氏についての評伝のような内容ではないでしょうか。由良氏の出自についてまで遡って、書かれています。
 五十代に入ったころから、アルコールで大変だったとは知りませんでした。その後、克服したとありますが。
 江藤淳氏や篠田一士氏との間柄もすごい。可笑しくなってしまいました。
 タイトルにある、「先生とわたし」、という内容が仕掛けている後部について、特に教育者としての記述は、読みにくかったです。
 読み返してみると、あちこちへ話がとんでいるような気がしました。挿入されているエピソードが面白いのですが、突然話題が転換している箇所があります。後日、手を入れられるときがきたなら、そのあたりは、どのようにまとめられるのか興味があります。

p145
由良君美がこうした講義を通して繰り返し強調していたのは、文学の研究は確固とした方法論に基づいてなされなければならない、という信念だった。方法があっ て、しかるべき後に感想や印象に価値が生じることになる。彼は日本の私小説的な風土が醸成してきた体系のなさと、それに発する印象批評を深く憎んでいた。 彼によれば、小林秀雄は脈絡のない感想を特権的な場所から述べ立てている文壇人であり、吉本隆明は出鱈目な理論を好き勝手に援用している野人にすぎなかっ た。
 おそらく由良氏にとっては、私小説なんぞは何の意味ももたなかったのでしょう。

p157
 おそらく戦時下のどこかの時点で、由良君美は都崎友雄に出会っているはずである。後に神田で高松堂を開き、戦後の古書店業界で重鎮となったこの人物は、 1925年にドン・ザッキーという筆名で詩集『白痴の夢』を刊行、おかっぱ頭のダダイストとして強烈な個性を発揮していた詩人だった。彼が当時主宰していた『世界詩人』なる詩誌は、由良君美を魅惑した。戦時下の不自由な雰囲気のなかで、少年は皇道精神を説いてやまない厳粛な父親が醸(かも)し出す抑圧的な 雰囲気に耐えかねていたが、世を忍ぶ仮の姿として古書店の主人の道を選んだ都崎が、人目を憚るようにしてロにする、かつての華々しい芸術的実験やアナーキ ズムの哲学に、大きく勇気付けられた。都崎は博識と相当の語学力をもっており、翻訳と造本の話になると、次々と原本や限定本を棚の上から取り出してきては、少年に講義した。ドン・ザッキーの影響がどれほど大きかったかは、日本敗戦の直後1946年に、君美がホノル・アルシーホなる、多分にスペイン系の筆名のもとに、私家版の詩集(後述)を遺していることからも推測できる。
 驚きました。いきなり、ドン・ザッキーこと都崎友雄氏の名前が出てきたことに。しかも、由良氏は都崎氏に会っていたはずだというのです。ここで述べられている、都崎氏に関する内容は、青木正美氏の著書に書かれていることと重複しているようです。
 これにボン書店(鳥羽茂氏)が加わったなら、さらなる驚愕ですが、さすがに年齢がかみ合わないでしょう。
 けれども疑問も残ります。二人が戦時下のどこかの時点で出会っているという根拠が薄すぎます。

p178
 バフチンのラブレー論に示唆されて、一度は『罵倒の文法』という新書判を夏休みを潰して執筆しょうとまで考えたことのあった由良君美は、みずから戯作調を用いて同時代を揶揄する術にも長けていた。たとえば次のような一節。
「法王某は『無常といふこと』の八方破れのあと、文字どおり鐔(つば)を文学と観ずる恍惚に走り、それを論じて文壇に月評子となりし某は、憐れや今世紀の 弁疏も身につかぬままに、百数拾年の昔に生前はや遷化されし、〈......とその時代〉なるヴィクトリア朝的風習に安住したもう。『言語にとって云々』とやらの 長文の垂れながしに、一握の書生を糾合されし午飯(ぎゅうめし)屋主人某は、近代言語学に一切通ぜず、フォルクス・エティモロギーに浮き身をやつし、某々 の憫笑を買いしと言う」
 斎藤緑雨を気取った、ひどく屈折した文体が指し示しているのは、小林秀雄、江藤淳、吉本隆明のことである。由良君美はこの3人を、方法論を欠いた印象批 評の輩として嫌っていた。だがその逆に、横光利一には生涯にわたって敬意を抱き、彼の手法の変遷を分析的に辿る論考を数点発表している。埴谷雄高と鮎川信 夫には好感を抱き、とりわけ後者の『戦中日記』に共感を感じると語っていた。