その意味は/考えるヒット4 近田春男 文藝春秋 2001年4月30日第1刷 |
週間文春連載コラムの2000年分。いくら好きとはいえ、良く続けられるものだと思います。巻末にはNHK紅白の曲目まで載っています。
巻末の対談が2本。秋元康と横山剣。
p166
秋元 TDの時にみんなよくヴォーカルを下げてバックトラックを上げるじゃないですか。僕はあれが気に入らない。ヴォーカルが楽器の一つになっているわけでしょう?
近田 でも本当言うとそれも過度的なところで、また変わっていくと思うよ。今の日本の音楽というのは、現実的に言うと、擬似的な、「ちょっとレベルが劣る洋楽」 なのは確かだと思う。今の洋楽と聴き比べると時代遅れなんだよね。エンジンで言うと、すべてがOHCの時に、まだOHVという感じ。まだ過度期なんだよ。 そう思えば、ある時期の洋楽はすごくヴォーカルが低かったから。
秋元 洋楽がベースになって、昔だと馬飼野康二さん、都倉俊一さんや筒美京平さんが作ってきた日本人の琴線に触れられるメロディラインがあった。だから小室哲哉さんの音楽まではわかるんです。
近田 彼は本当にうまいよね。
秋元 でもそういうラインではない、洋楽を肌で吸収してきた新しい世代が今いるような気がする。例えばドリームズ・カム・トゥルーのコード進行を心地良く感じられて、あの転調に違和感を感じずに、しかも歌える世代が確実にいるわけでしょう。
近田 でも厳しく言うと、そういうものはアメリカでバート・バカラックの時代に終わっているんだよね。今のアメリカの音楽は基本的にはコードがあまり変わらない。なるべくワンシークエンスで飽きさせずに作るというところだから、転調は洋楽の歴史で言うと二世代前の新しさなんだよ。まあやっとそこまで来たということなんだと思う。そういう中で降谷建志とかは、その次の、「コード進行が変わらない中での日本語とは何か」というところを模索しているんじゃないのかな。俺もずっと前からコード進行が変わらない音楽を考えていたのね。だから、あくまで日本の音楽を洋楽になぞらえて言うんだけど、実はドリカムや小室哲哉の次の世代として、まだ時間がかかるかなと思ったら意外と早く構造が変わらないところまで進 むかもしれないという気がする。
そういうものはアメリカでバート・バカラックの時代に終わっているという近田氏の言葉に目がとまりました。こういう言い方、昔は良く耳にしたものです。近頃では珍しくなってしまいました。けれども、(最近の和製音楽――そ れを「Jポップス」と呼ぶのでしょうか?――について、ほとんど知識がありませんが)、相変わらず、昔と同じような状況が連綿と続いているようです。
最近、地上波でカーペンターズの特集を放送していたのを思い出しました。バート・バカラックが作曲・編曲を多数手がけたのがカーペンターズでした。
それにしても今の日本の音楽というのは、現実的に言うと、擬似的な、「ちょっとレベルが劣る洋楽」 なのは確かだと思う。なんてことを、おおやけにズバッと言いきる人は、いなくなってしまいました。
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