[NO.357] 稀本あれこれ/国立国会図書館の蔵書から

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稀本あれこれ/国立国会図書館の蔵書から
編著者 国立国会図書館
出版ニュース社
1994年5月31日 初版第1刷発行

あとがき
「稀本あれこれ」は、昭和三八年七月から『国立国会図書館月報』に掲載され、今日まで三〇年以上にわたり連載が続けられている。当初は、特定の職員が一年 くらいずつ受け持って、当館の蔵書から関心のある稀本を選び、執筆していた。現在は、数名の職員が、和書、漢籍、洋書、地図、憲政資料を分担して、紹介を 行うというスタイルをとっている。
 今回、平成五年までの分をまとめて刊行することになったが、この長期の間に、執筆者のうちほぼ半数の方々が退職され、中には物故された方もある。あらた めて、これら諸先輩に感謝したい。本文には執筆者名は省略したが、巻末の「執筆者一覧」に項目番号を付して、各項の執筆者がわかるようにした。
【以下略】


 扱っている本は珍しいものばかり。近代で、何冊か有名なものもありますが。全編がコラム形式で読み切りなので、難しい本でも読み通せます。国会図書館の 職員が書いているというのがポイントかもしれません。行間からにじみ出る、執筆者のいろいろな思い、感想が意外な面白さでした。

25『寛政文政間日記』
 鶴見俊輔は著書『柳宗悦』(平凡社選書)の中で、柳の民芸に対する態度は、見る知るだと評している。考えて見ると、われわれ図書館人も、見る知るではな いかと思う。専門損得とは関係なく、見てから全てが出発するからである。これと反対なのが、世の学者先生たちで、これは知る見るが基本であろう。なかに は、見ることを軽蔑している方もいらっしゃる。研究者は範囲をきめて、とりかかるから深くはなるものの、どうしても狭くなってくる。われわれはそれに反し て、広くなる代りに、注意しないと浅くなる。そこに、普段から、それを避ける心がけが必要なわけだ。
 ここにとりあげた『寛政文政間日記』は図書館に入ってしばらくしてから、存在を知った本である。面白いなあと思って、時々書庫の中で、立ったまま読んで いつか読み適した。この本は、名古屋藩士高力種信(こうりきたねのぶ)の著書で、日記中から、世相の箇所を抜いたものらしく、期間は寛政一三年から文政一 一年までであり、本は大惣本である。これに匹敵するものは江戸にもない。
 要約すれば、こういうことであるが、こんなことでも、これだけ追求しているわけではないから、かなりの時間がかかって知ることができた。
【以下略】
■書架の通路に立って、膨大な時間をかけ、この方は読み通したというのです。「世の学者先生」という呼び方に込められた気持ちが感じられます。


244顎軒(がつけん)と古道人
 明治一九年正月、松飾りの残る神田錦町路地を、ドブ板を踏んで訪ねて来た青年がある。「詩文添削古道人総生寛(ふそうかん)」の看板を見ると、案内を乞 うた。彼は、看板にある漢文習学が目的であった。主の常の先生はバカに尊大、怪気焔で青年を煙りに巻いた。それから数カ月、この先生について漢文を学ん だ。当代の学者も、髭先生の品評の前にかたなしであり、「天下に師無くして大儒となりし者は我と狙徠あるのみ」と豪語したが、自著『武経』(請求記号  25-636)『大観経』(請求記号 1-122)を説明して「百年の後これを経典のように観る時代が来る。わしが経の字を加えるゆえんである」といっ た。総生寛、もはやその名は忘れられて、僅かに明治前半の出版書目におびただしい雑著の編著者として見出す。戯作物、教科書、啓蒙的法律書まで。明治一〇 年代から二〇年にかけての戯作流行時に、彼は狂詩狂文をもって聞え、その奇行奇言によって毀誉半ばした。明治二四年、一小誌はその消息を伝えて、「先生は 先年フト半身不随の症にかかられて筆をとることもならず、当今勝手元不如意を来し、其娘を水仕の奉公に出し云々」と報じ、往年の彼を知る人に同情の念を催 させた。その頃、先の青年は医科大学を卒業して、医局の助手であった。出勤途上の不忍池畔で、今は乞食のように落ちぶれた髭先生に出会い、下宿に伴って面 倒を見た。それからは、利根川畔の田舎から上京の度に青年を訪ねたが、青年が欧州留学に旅立つ日、唯一の所持品と思われる筆箱を贈り、涙をうかべて別れを 惜しんだ。青年は、後の皮膚病学の泰斗医学博士土肥(どひ)慶蔵である。号顎軒は髯先生命名の堂名によったが、「かりに余が道人に会うの機会をとらえなん だならば、今の余はおそらく全く別の余であったかもしれぬ」程の敬愛の念を抱いた。呉秀三は『顎軒游戯』の書評で、初め文筆の人でなかった顎軒が、文にお いても名をなしたのは、一に古道人総生寛翁の賜物であるといった。古道人によって漢詩文の目を開いた顎軒は、「日本人の詩文集」の一文を草して、「私は書 生時代から日本人の詩文集を拾い集めて来た。このコレクションは我朝の各時代、なかんずく五山以後徳川時代の文学の精華である。其集類が西洋文化の輸入と 共に心なく滅びゆくのはいかにも口惜しかった。此詩文の中に隠れた幾多の史料は早晩必ず志ある人に利用さるべきである......」と書いた。そのコレクション が、当館の襲蔵する顎軒文庫八、〇〇〇冊である。

■このエピソードがどこまで真実を伝えているかは疑問が残ります。けれども、そんなことより、これを書かれた司書の方が打たれた心情が強く伝わってくる文章です。