[NO.342] 本の雑誌増刊 おすすめ文庫王国2006年度版

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本の雑誌増刊 おすすめ文庫王国2006年度版
編者 本の雑誌編集部
発行人 浜本茂
本の雑誌社
2006年12月15日 初版第1刷発行

 執筆陣が豪華? 10年前くらいまでは毎月購入していた「本の雑誌」だけに、どちらかというと懐かしい面々かもしれません。

 目次から、筆者名が書かれているものを抜粋します。
ジャンル別ベスト10
現代小説 眠れぬ夜に読みたい驚愕の物語 豊崎由美
SF 波瀾万丈絢爛豪華、五つ星の大傑作 大森望
恋愛小説 あれも愛、これも愛、えぇいまとめてみんな愛! 吉田伸子
ライトノベル 新レーベル登場でガンガンいこうぜ! 三村美衣
国内ミステリー 着そうに満ちた小説にぞくぞく興奮 吉野仁
翻訳ミステリー デミルはやっぱり凄かった! 関口苑生
時代小説 本格剣豪モノから人情捕物帖まで 青木逸美
ノンフィクション 記憶と記録を辿る渾身の傑作群 東えりか

年間文庫番 私は『戦争と平和』を通読できるのだろうか 坪内祐三
私のオールタイム文庫ベストテン 町田康

テーマ別おすすめ文庫
特別番外編 旅に持って行きたい文庫 高野秀行
物語を食う グルメ本の乙な味わい方 柴口育子
可能の限界 スポーツ小説に思わずブラボー! 大矢博子
男のねうち フォームの中の洗練された美 渡邊十絲子
背中フェチの憂鬱 霜月蒼
文庫で読みたい古典ベスト10 池上冬樹
最近のエロはイカン 青木るえか
佐伯泰英完全読破 関口鉄平


■年間文庫番 私は『戦争と平和』を通読できるのだろうか 坪内祐三
p31
 スペシャルといえば、実は、ある意味でさらにスペシャルな新訳があった。
 それはもちろん岩波文庫のトルストイ『戦争と平和』(藤沼貴訳)である。
 何が「さらにスペシャル」かといえば、全六巻のこの文庫の第一巻の刊行は今年の一月。そして第六巻が見事完結したのは今年の九月。
 つまり僅か一年足らずで岩波文庫はこの大長篇小説(一巻のボリュームはそれぞれ五百頁以上ある)の新訳を刊行させたのだ (三十年近い時をかけていまだ 未完結のドス・パソス『USA』をはじめとしてかつての岩波文庫の翻訳長篇はなかなかペース通りに刊行されないという定評があったのだが)。
 完結後二カ月近く経つのに新聞や雑誌(例えば文芸誌)で書評をまったく見ないのは何故だろう。やはり読み切れた人がまだいないのだろうか。
 やはり、と書いたのにはわけがある。
 この「文庫番」の原稿依頼が来たのは九月半ば、ちょうど『戦争と平和』全六巻が完結した頃だ。
 当初私は、これはナイスなタイミング、「文庫番」は『戦争と平和』で行こうと考えていた。
 ネタとしてではなく、私は、第一巻が出てすぐ、岩波文庫の新訳『戦争と平和』を読みはじめていたのである。
 あれは確か去年(二〇〇五年) の秋の事だったと思う。
 雑誌『ニューヨーカー』にとても面白くて読みごたえのある(四百字詰め原稿用紙で三十枚ぐらいの長さの)記事――同誌の編集長自身の手になる記事――が載った。
 その『ニューヨーカー』が見当らないので記憶で書く。
 ロシアからアメリカに移り住んで十年以上になる主婦がいる。旦那はアメリカ人だ。
 文学好きのタダの主婦だ。
 ある日、英訳のロシア文字を手に取った。
 定評のあるガーネット女史の訳したロシア文学だ。
 そのチェーホフだかドストエフスキーだかトルストイだかの小説を読んで彼女は驚いた。
 あまりにもひどい訳だったから。
 誤訳とかそういうレベルではなく、原文とは掛け離れた雰囲気の訳だったから。
 そして彼女はある事を決意する。
 自分の手でそれらのロシア文字の名作を新訳してやろうと考えたのだ。
 その決意を実行に移し、まず、ドストエフスキーのある作品(確か『地下生活者の手記』だったと思う)を英訳した。
 ロシア語はネイティブであっても英語は母語でない。だから彼女が英訳した英語を旦那が添削した(彼はその専門職でなかったのにそこまでネイティブに近いロシア文字読解力があったのは驚きだ)。
 その英訳は小さな出版社から刊行されたが、まったく話題にならなかった。
 しかし続けて二作目三作目と刊行された。
 その内の一作トルストイの『アンナ・カレーニナ』はイギリスのペンギン文庫に入れてもらえた。
 そこから 〝アメリカンドリーム〟 が始まる。
 ペンギンの『アンナ・カレーニナ』は刊行後一年以上経て、アメリカでもっとも有力なブッククラブの推薦を受け、それに合わせてペンギンは大宣伝をかけ、この 『アンナ・カレーニナ』の売り上げは一気に五十万部を突破し百万部に達しょうとしている。
 しかも翻訳の美しさと正確さを専門家たちが認めた。
 この記事を読んで、私は、売り方一つでトルストイの長篇小説が百万部も出てしまうアメリカの読書人の層の厚さにも驚いたが (アメリカ人が馬鹿だなんて誰が言った)、何故か無性にトルストイの『戦争と平和』を新訳で読みたくなったのだ。
 まさにトルストイの『アンナ・カレーニナ』やドストエフスキーの『白痴』をはじめとして、私には、未読あるいは途中挫折してしまったロシアの長篇小説は 数多いが、中で一番(特に最近ますます)気になっているのが『戦争と平和』なのだ(『戦争と平和』についてたびたび参照される小島信夫の長篇小説『別れる 理由』を精読したからかもしれない)。
 大学に入学した年の夏休み、岩波文庫の米川正夫訳『戦争と平和』を手にし、最初の二~三十頁ぐらいで挫折してしまった(そのくせ同じ頃手にした本多秋五 の評論集『「戦争と平和」論』に収められていた『戦争と平和』についての評論はすべて読んでしまったのだから)。
 以来私は『戦争と平和』を一度も手にしていなかった。

■ノンフィクション 記憶と記録を辿る渾身の傑作群 東えりか
p47
1 「核」論 鉄腕アトムと原発事故のあいだ 武田徹 中公文庫
2 朽ちていった命 被曝治療83日間の記録 NHK「東海村臨界事故」取材班 新潮文庫
3 がんから始まる 岸本葉子 文春文庫
4 家庭の医学 レベッカ・ブラウン 朝日文庫
5 動物園にできること 川端裕人 文春文庫
6 前世への冒険 森下典子 知恵の森文庫
7 野中広務 差別と権力 魚住昭 講談社文庫
8 裁判長! ここは懲役4年でどうすか 北尾トロ 文春文庫
9 ミャンマーの柳生一族 高野秀行 集英社文庫
10 負け組ジョシュアのガチンコ5番勝負! ジョシュア・デイビス 酒井泰介 ハヤカワ文庫

■文庫で読みたい古典ベスト10 池上冬樹
p87
1 武器よさらば アーネスト・ヘンングウェイ 高見浩訳 新潮文庫
2 心変わり ミッシェル・ビュトール 清水徹訳 岩波文庫
以下略

 まず1から4までが世界文学。1は、個人的に中学二年のときに読んで痺れた作品 である。恋愛小説ではあるが、しかし戦争を体験した男の心象風景を、心理描写をできるだけ排しながら捉えた作品と僕は見ている。ヘミングウェイの小説はみ なそうなのだが、何気ない風景描写が印象的なのは、ヒーローの内部の眼差しから見ているからである。
 その内部への眼差しは、実は2にもうかがえる。2のビュトールは、1960年代に生まれたフランスの「ヌーヴォーロマン」の旗手であり、とくに2は、 ローマにいく男の話を「きみ」という二人称で描いている。文学史的にいうなら、元祖二人称小説であり、以後純文学のみならずエンターテインメントでも二人 称小説が多数生まれるようになった。画期的な作品ではあるが、いまの読者が読めば、さほど驚かないかもしれない。でもゆっくりと読んでいくと、その「き み」は読者一人ひとりの自分のことのように思え、作者の「きみ」へと向けられた眼差しは周到で、車窓に広がる風景と己が内部の感情がよびおこす微妙な色合 いの風景が重なり、いわくいいがたい陶酔へと導いていく。本書が気にいったなら、本書に影響を受けた倉橋由美子の『暗い旅』を読むといいだろう。そして ピュトールのもうひとつの傑作『時間割』も。さらに『時間割』に影響を受けただろう、戦後日本文学の名作のひとつ、福永武彦の『死の島』(この傑作中の傑 作をどうして復刊しないのだ?)もぜひ読まれよ。

 ミッシェル・ビュトールから、倉橋由美子の『暗い旅』は連想するものの、福永武彦『死の島』へは、これまで思いが至りませんでした。倉橋由美子も福永武 彦も、ともに愛読し、倉橋由美子作品集と福永武彦全集まで購入していたのにです。『時間割』は、文庫で買いました。