[NO.296] 雑書放蕩記

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雑書放蕩記
谷沢永一
新潮社
1996年7月15日 発行

p245
さてもそののち――後記に代えて

 昭和三十一年春、下宿を出て住吉区万代東(まんだいひがし)の仮住居に移る。一階と二階に廊下のような空間があるのを幸い、そこに書棚を並べた。併せて 十坪ぐらいか。三十四年一月、桐原美智子と結婚。四月、専任講師に昇任、はじめて教壇に立つ。十月、全国の若手を結集した近代文学懇談会の発起人に加えら れ、多少の学会活動に入る。
 三十五年秋、宝塚市売布(めふ)の建て売り住宅に転居、隣接して二十坪を増築、うち十三坪を書庫、七坪を書斎とする。ようやく蔵書を一箇所に集めることができた。三十七年助教授。
 四十一年一月、川西市花屋敷に新築して移住、一階と二階に十坪ずつの書庫を設(しつら)える。四十三年教授。その間、蔵書は増える一万、十分に整理して 納めることができないので、何回か主として天牛書店、また赤尾照文堂に放出する。のち次のような負け惜しみの一文を草した。前半を省略して結語の部分のみ 引用する。

 そして余りに書籍を貯め込み積み上げれば、いつの間にか一種の毒気に当てられて、圧迫されるような鬱陶しい気分に支配される。一生に読める書物は高が知 れているし、読み返すに値する秀逸は思いのほか僅かである。文字禍の魔力に捉われぬ為にも、蔵書は常に整理処分を考えるべきであろう。現代は論理の時代に 非ず、情報こそが思考の基礎である。誰某の名著に拝跪して、ひとつ覚えの論説を杖柱と頼み、それで何事かを割り切れる時代ではない。いわゆる名著の貯め置 きは過去の遺習である。
 職業上に蔵書を必要とする極く一部の存在を別とすれば、現代人にとっての書斎とは、書物
 が流れ入りまた流れ出るべき、河川の如き役割の部屋であると観じ得ようか。
 (昭和57年5月15日『続続・書斎の復活』ダイヤモンド社)
 五十六年八月、第一回の増築、書庫倍増で四十坪となる。相変らず慾張って買い入れる、その一方でまた処分するものだから、よい心掛けであると、古書店の請けがよくなったのは微苦笑ものであった。その後さらに増築して書庫が最終的に五十坪となった。
 書庫は考え得るかぎり効率的に設計したのだけれど、これまた次第に納まりきれなくなってゆく。遂には書棚の前一列に背を上向けて並べたり、叢書全集類は 壁ぎわに積みあげる結果となる。それやこれやで書庫が満杯となり、あたかも破裂しそうな状態になったとき、阪神大震災を迎えることになった。重複する部分 もあるが、その被災白書を次に掲げる。

 阪神大震災のその日まで、私はちょっとした蔵書家だったようである。中学三年生のとき、六畳の書斎をとりかこむ書棚から溢れた本が、足の踏み場もないほ ど積み重なっていた。それが大阪大空襲により一夜にして焼尽、しかしその直後からまた蒐めはじめて溜まる一方である。昭和三十五年に宝塚の売布(めふ)へ 引っ越した頃、書庫は十三坪になっていた。関西大学の専任講師になったばかりである。薄給とはいえボーナスはいちおう支給される。それで何を買うか楽し
みに家内が心積もりしていたのに、私が全額を古書店へ送金したので、泣いて怒ったことも一再ならずである。
 昭和四十一年に現在の川西市へ移ったときには、思い切って書庫を二十坪に増やした。家屋の奥まった中心部が書庫で、それに居住空間が附随しているかの如 くである。暫らくは平穏無事であったが、そのうち書棚に入りきらなくなって、通路に積み重ねてもまだ余り、遂には外側の廊下へはみだしてくるから家内があ わてた。愛犬の頭の上へ落ちて怪我をさせるおそれがあるではないか。そこでやむなく空いている東側の敷地へ大幅に増築した。書庫倍増の四十坪である。分に 過ぎたる贅沢であった。
 書庫を有効に使うためには、書棚の工夫が肝心である。出来合いの既製品は必ず寸法が大まかで、本の手前に余計なスペースが残る。無駄であるうえ填りが積 もって本の下半分に染みがつく。専門の家具屋に誹えるとぼったくられる。大工さんに普通の材木で組み立ててもらった。棚の奥行きは本が転げおちない程度で よい。高さと奥行きはA5判の本が収まるだけを以てよしとする。大型本は別置すればよい。両側から本を入れるのだから中間の仕切り板は不要である。本が動 かぬよう下部に■(木+内(ほぞ))をしつらえるだけで済む。私よりほかに誰も出入りしないのだから、棚と棚との間は一人が通れるだけに狭める。こうして 窮屈だが能率的な書庫ができあがった。
 本の量は膨れる一方で総数はいくらに達するか見当がつかない。あるとき新聞社の方が見えて数えてあげようと乗りだした。まず書棚の総延長を計算する。そ して一冊の厚さを平均二糎(センチ)と仮定してそれで割る。結果は九万六千と出た。二糎より薄い雑誌が多く含まれているし、小冊子もまた少なくないから、 実際の点数はそれより上であろう。溜まるものだなあと感じ入った。
 そのうちまた次第に溢れだしたので、もうこれ以上は無理という境界まで張りだし、遂に合計五十坪強に達した。個人が把握し管理しうる蔵書としては、これ くらいが限界であろうと観念した次第である。もちろんその間には何度も大量に処分している。我が書庫は書物が流れ入りまた流れ出る溜まり場であった。いっ たん手許に引き寄せた蔵書の一部を手放すのにはよほどの決断が要る。抑えきれぬ未練を断ちきらなければならない。蔵書を整理した思いを指して高橋義孝は、 宿便を排した心境であると囁いたが、なかなかそれほど壮快な心地になれるものではない。放出の辛さ淋しさは日く言い難い。
 しかし六十歳に達する前後から、私もまた蔵書の行方を多少は思案しはじめた。世には老年の学者や或いは未亡人が、その人の名を遺し記念とするため、蔵書 を一括して寄贈したいと、図書館へ持ちかける例が少なくない。あれは図書館にとって実に迷惑千万なのだ。現在は何処でも恭しく御辞退申しあげるのを常とし ている。ありふれた珍しくもない本を押しっけられては始末に困るのである。
 ところで私としては散らしたくない思いの蒐書が何種類かある。第一には今まで明治大正文学の研究家が問題にしてこなかった風聞記評判記人物論放言録などのごちゃごちゃした雑書で
あり、そこに文藝関係の記事が少なからず散見するのである。一冊また一冊だけではどうということもないが、それらを蒐めてかためてひとつずつ見てゆくと、時代の空気がおのずから浮かびあがるのである。
 第二には出版社の社史に関係する一群の資料である。主要な社史は周知であろうが、社史の蒐集として著名な『龍谷大学図書館所蔵長尾文庫目録増補改訂版』 にも収載されていない出版社史は意外に多い。まして各出版社に関与した経営者および編集者の伝記や回想記や追悼録は、残念ながらまだ視野の外におかれてい る。しかしこれらの記載を調べなければ本当の出版史を探ったとは言えないであろう。
 第二正は内容見本の蒐集であり、明治十四年に始まる各種叢書類の内容見本がほぼ揃っている。第四には講座全集類の月報コレクション。第五には各時代の多様な文化界が刊行した人名録の蒐集である。
 以上のうち前者三種の文献に執心しているのは今のところ私だけであろうから、この蒐集を中心とする若干の資料を関西大学図書館へ寄贈したいと申し入れ、 幸いに承諾を得て幾分かずつは送り届けていた。あとはどうしようか、まだ思案の定まらぬうち、今回の震災となったのである。
 幸いに我が家は改築の直後だったので、家屋の損傷は免れたが、書庫の災害は無惨であった。二階の最も古い部分は書棚がすべて将棋倒しになり、本は悉く吐 きだされて散乱している。隣接するより新しい部分は書棚が多少ゆがみつつ立っているかわりに、本が洩れなく柵から飛びだして床に堆く積もり重なっている。 階段を上がったところにある縦長の書棚は下まで一直線に転がり落ちた。一階の書庫は揺れが少なかったせいか、本がかなり書棚に残っているものの、その本を 載せたままの書棚がねじれながら四十度ほど傾いている。いずれにせよ踏みこむこともできない危険にして乱雑きわまる打撃である。余震がまだまだ続いている ので、当分は手を着けず、放っておくしかないであろう。
 以上のような実情を一月二十八日の産経新聞に書いたところ、直ちに司馬遼太郎さんが速達で以下のように適切な指示を与えられた。いわく「書庫が大混乱し た、ということを、右の夕刊で知りました。谷澤さんにとって、いのちを掻きまわされたようなものでしょう。あらかたひとに整理を頼もうとも、ご自身が、一 冊のこらず手にとって衆星の居るべき場所に収めねば、どうにもならないでしょう。これは体を痛めると思いました。寒中です。谷澤さんの精神さえゆるせば、 いったんは他の人々に容れてもらって、掃除をしてもらって、春到来とともに気永になさればどうでしょう。そのことのみ、気にかかります。体がこわばり、血 液が循環しにくくなると、ろくなことはありません」。つくづく身にあまる、至れり尽くせりの御配慮である。拳々服膺して対策を講じた。
 クラレホームが格別の好意で大工さんをまわしてくれたところ、たちどころに傾いた書棚が起こされ、倒潰した書棚の解体処分が進む。そこで若い大工さんに お願いしたら、これまた迅速に本が書庫に納まった。私なら何日何箇月かかるやらわからぬところ、一日で本が立ち並んだのには感動した。司馬さんお見透しの 通りである。さあこれからどうすべきか。
 ここは潔く諦めをつけるべきである、と私は心を決めた。五十坪強の書庫、少なく見ておよそ十三万冊、それを元の如く復元するのはおよそ不可能である。或 る本が書庫のどこかにある筈だ、というていたらくでは持っていないに等しい。蔵書のイノチは分類である。すべての整頓が所詮はできないとすれば、自分で秩 序立て整理できる程度に減量するしかないであろう。すでにして私は六十五歳である。今後に或いは為し得るかも知れぬ仕事の範囲と分野についても地道に考え るべきである。思案の落ちゆく先はただひとつ、蔵書の縮小である。大学へ納める予定の若干を残して、他は古書業界の大海へ一挙に放出しよう。
 ただひとつの例外は大正二年以来の『新潮』である。この件では何年か前すでに柴田光滋さんと話がついている。新潮社資料室所蔵の『新潮』は旧式に合本し てあるゆえ取り扱いに不便であるようだ。幸い架蔵本は保存がよくバラであるから副本としていずれ謹呈いたしましょう。その時が来たようである。直ちに箱詰 めして送り届けた。
 他の雑誌は大正三年以来の『中央公論』をはじめ殆ど放出する。厖大な雑誌群のバックナンバーをいちいち照合して揃える気の遠くなるような手間は効果と釣 り合わない。ただ二種類、創刊以来の『文藝春秋』とその派生誌『話』とだけは、これは文藝誌学術誌ではなく昭和期の世の姿を映しだす鏡だから、今後も折に ふれ御厄介になること確実、相当に嵩張るけれど手許におこう。
 単行本では何々の研究といかめしく澄ましかえっている類いにはすべておさらばする。理の勝った作家論はもう聞き飽きたから回想録風の証言のみ残す。寄せ集めの講座類も不要である。あとは出たとこ勝負、個別に判断してゆこう。
 ちょうどお誹え向きに四月九日、京都で全連大市(おおいち)が予定されている。全国の古書店が一堂に会して行う大入札会である。今年は京都の古書組合が 七年ぶりの肝煎りを務めるので、御当地の面目にかけて仕入れに努めているであろう。そこへ持ち込んでもらえば、僅かながらも賑いの一端となるかもしれな い。
 しかし現在は蔵書を処分するのに最も都合の悪い時期である。私は五十年来、全国の古書店と殆ど洩れなくつきあってきたから、業界の傾向と景気については 知悉している。今は学術書も売れず雑誌も売れない時期なのだ。昔は学者といえばなにほどかの蔵書を蓄えるのが常識であった。しかし今の学者は本を買わな い。研究資料はすべて図書館が買うべきものだと心得ている。雑誌もまた購読する必要を認めない。必要な箇所だけコピーをとればよいのである。それから建て 前としての研究分野が細分化して、或る一人の作家のみの研究家と称して大きな面(つら)ができる時代だから、それ以外の領域には振りむきもしない。本が売 れない筈である。目下の古書業界で高値を呼んでいるのは、ごく限られた人気筋の初版本、よほど保存のよい限定本、それに自筆物である。そういう類いの豪遊 とは無縁で過ごしてきた私の蔵書は、もはや当世向きとは申しかねる。あつかましく期待すべき時代ではないのである。
 こうして肚をきめた私は赤尾照文堂に電話をかけた。河原町通りに面して京都を代表する老舗、国文学を中心とする最も本格的で引き締まった店構えで、親子 二代にわたるながいお馴染みである。打てば響くように若主人の薫さんがさっそく伺いましょうとの答え。あまり大したものはありませんよ、と私の方が恐縮し た。それから二月十一日を皮切りに合計四回、殆ど朝九時から夕方までの大活躍であった。むかし若き日の開高健が、古本屋の主(あるじ)になったら、来る日 も来る日も本を読んで暮らせるだろうと、まことに暢気な見通しを語ったものだから、何を言うか、店にじっとしているようでは上がったりで、古本屋はたいへ んな重労働なんだぞと、業務内容を詳しく説明してやったことがある。近頃は運搬事情が格段によくなったので、以前のように大きな風呂敷包みを担いで、とい う風景は見られなくなったが、本の処理が力仕事であるという実態は今も変らない。
 さあ始めましょうと、私が本棚から放出すべき書物を抜きとってゆく。倒潰後に棚へ闇雲に戻した儘だから順序も分類もあったものではない。それを赤尾さん が頭のなかで整理しながら、おおよその仕分けをして床のあちこちに並べ、或る程度のまとまりがついたところで紐をかける。私はどうしても立ったりしゃがん だり、左右に体をねじったりするものだから、腰が痛いとついへたりこむが、常日頃から鍛えてある赤尾さんは憎らしいほど平気である。
 最初は断乎たる決意を以て臨んだつもりでも、一冊また一冊と本のツラを見てゆくうち、ああこの本には御恩になったと棚へ戻したり、これは近い将来に要る かもしれんと未練が出たり、私の勢いはややもすると鈍くなる。赤尾さんとアルバイトの方と、お二人の手を休めないように抜きだしてゆくのは一苦労である。 それでも漸く二噸トラック三台分を積みあげ、精根尽きた恰好で作業終了となった。四日間はなんとか気張って通したものの、その翌日は全身を棒で叩きのめさ れたように痛み、そこへ珍しく風邪を引いたか、私は遂に二日間寝込んだ。無情にも出されてしまった本の恨みに崇られたのであろう。
 こうして一段落してのち思い返すのだが、若い時に名著だという触れこみに釣られて買った本が、軒並み殆ど私の役には立たなかったようである。大著は大悪 なりとレッシングは言ったそうだが、外装のいかめしくない気易くしとやかな類いの本に、有益なヒントが沈められているのを通例とするようである。ちょっと ひねった例を挙げるなら、淀川長治(『サントリークォータリー』36号)がこう言っている。「三島由紀夫さんも立派だけど、三島さんは谷崎さんから比べた ら子供。論文的に、大学の教室的にうまいの。谷崎さんはそんな野暮なことはない。もっともっと大人の世界を持ってる人」。これは何物にも煩わされず何物に も気兼ねせず自分の眼を光らせている人の発言である。世の批評家にはこういう剔抉(てつけつ)は無理であろう。
 このたびの整理で私がしっかりと手許に残したのは、超一流の学者の著述である。そして二流以下にはすべて流出していただいた。しかし改めてつくづく思う に、あの二流以下をもし読み漁らなかったら、ひょっとすると超一流を超一流と認めることができなかったかもしれない。よほどの天才的な読み巧者は別とし て、私のような凡俗は、あれこれと無駄な浪費的読書をしなければ、真物(ほんもの)に突き当れなかったもののようである。世には一筋の目標を定めて、見事 に完備した蒐書(コレクション)を完成する人もいる。しかし私は五十年間、行き当りばったりの無目的な買い集めに終始した。遂に読まなかった読めなかった 本も甚だしく多い。近世期には外題(げだい)学問という蔑称があった。書名や書目だけに通じて内容を研究しない半端者を言う。私もまたその種の半可通かも しれぬ。しかし私は全国の古書販売目録を熟視して、これはなんの本かいなと思案しながら意を決して注文し、着いた本を見て喜んだり失望したりしながら撫で まわした。内藤湖南の教えるところに従って、序文と目次と後記とだけを読んだりしたものである。私にはそれが十分に役立った。身銭を切っただけのことは あったと思っている。私の蔵書は流出したけれども、その一点一点を手許に引き寄せる喜びが、私の五十年を貫く主導調であったろう。尽きぬ感謝の念を以て、 私は旧蔵書を恭しく見送ったのであった。
          (平成7年6月1日号『ノーサイド』)

 これまで私が買い求めた本と雑誌は二十万冊を越えるであろう。しかし残念ながら、私が蔵書家である時代は過ぎた。既にして六十六歳である。今後なお或いは為し得るかも知れない仕事にそなえて、手許に残した愛惜の書をいつくしんでゆこう。
 話は前後するが、平成元年二月七日、父常一死去、享年八十四歳。いつも啀(いが)みあいながら結局のところ私が気を楽にして学究生活を送れたのは父のお かげである。そして奇しくもその同じ年、平成元年十二月九日、開高健死去。突っかい棒を失った淋しさはとても表現できない。辛うじて「回想開高健」(平成 3年12月『新潮』)を書き、気持ちの整理に一区切りつけようと試みた。
 その執筆にとりかかる前の平成三年三月、勤続三十五年に達するのを機に六十一歳をもって関西大学を退職した。〝職業としての学者″であったその期間の文 業を集録したのが『日本近代文学研叢』全五巻(平成6年11月15日~8年1月15日・和泉書院)である。読書論の方面に属する文業は『書斎独語』(平成 2年12月5日以降・潮出版社)シリーズとして続刊中(既刊四冊)。最も崇敬する作家についての微意をこめて『司馬遼太郎の贈りもの』(平成6年2月1日 以降・PHP研究所)がこれまた続刊中(既刊二冊)である。社会思想史の領域における所見は『「嘘ばっかり」で七十年』(平成6年11月15日・講談社) にまとめた。戦後および同時代の思想史的省察は『こんな日本に誰がした』(平成7年6月16旦『悪魔の思想』(平成8年2月29日・共にクレスト社)と書 きついでいる。人生論社会論の方向における思案の反芻は『人間通』(平成7年12月20日・新潮選書)に集約することができた。そして今ここに私の書物を めぐる生い立ちを振りかえる本書が刊行の運びとなったことを大いなる喜びとし、企画から編集まで一貫してわずらわせた柴田光滋氏に深く感謝の意を表する。

  平成八年四月二十日
          谷沢永一

(本書の写真頁に出ている本は、戦後刊の『三銃士』を除き、読書当時の版である。)