[NO.282] 焼跡のグラフィズム/「FRONT」から「週間サンニュース」へ/平凡社新書268

yakeatonogurafizumu.jpg

焼跡のグラフィズム/「FRONT」から「週間サンニュース」へ/平凡社新書268
多川精一
平凡社
2005年4月11日

 墓の中まで持って行きたかった人がたくさんおられたのでしょうが、著者によってここに書き残されました。

目次

第一部 虎穴での生き方
その一
日米開戦と共に就職1仕事は対外国宣伝物の制作/心ドキドキの初出勤で出会った異体の人々/西洋館に出入りする革ジャンの長髪族/師匠と同室で気づまりの一人助手

その二
国家機密とは何だ――初めて湧いた国家への疑問/補給を絶たれて南海に孤立する皇軍/勝ってこその宣伝効果、巨大戦艦と『FRONT』の運命/ 『FRONT』から『戦線』へ、占領地対策への方針転換/東方社の内紛、宣伝の神様太田英茂氏の登場/(嘘つき写真)はこうして作られた

その三
自由主義文化人の生き残り戦術――戦争の嵐を虎穴でしのぐ/軍隊は官僚組織で軍人もことなかれの役人だった/東方社はアカの巣だ! 執拗に嗅ぎ回る特高刑事/空襲対策で野々宮ビルに引越し――栄養不良と重労働で倒れる/目的もなく今日を生きる――敗戦に向う最後の日々/東方社解散、原爆投下、B-29単機 飛来におびえる毎日

第二部 焼け跡をさまよう
その一
敗戦――廃墟の焼ビルにあてもなく集う日々/焼ビルに身を寄せ合う元社員をさらに襲う不幸/広島・長崎の原爆記録を撮影――木村部長の度胸でフィルムを守る/『東京一九四五年・秋』の刊行――文化社が戦後に残したもの/グラフ雑誌『マッセズ』の刊行/東京駅前丸ビル地下室の怪

その二
『週刊サンニュース』に他流試合を挑む――名取洋之助との出会い/木村名人の写真は切れるか――溶け込めなかった名取グループ/再びワラジを脱いで裸足のフリーに戻る/華やかな宣伝広告の世界に背を向けて/会社での仕事の覚え方いろいろ――親方系と体育会系/巡り来た冬の時代に耐える/上野桜木町の金丸屋敷で暇つぶしの絵を描く/泣き面を次々襲うハチの群れ/明けない朝をじっと待つ――長過ぎる焼跡生活/岩波写真文庫にも乗り遅れる


あとがきから引用
 これは前著『戦争のグラフィズム』(平凡社ライブラリー)に続く三冊シリーズの第二冊目として、私の戦中・戦後の二十代に経験したことを書いたものである。

p129
 しかし東方社や日本工房の幹部スタッフは、戦時中軍に協力したことを恥じて自分たちの仕事の前衛性を語ることが無かった。東方社最後の理事長代行として、その終末を看取った中島健蔵さんは自著のなかで、
「東方社の最大の功績は技術の伝承であった」
と述べているが、事実、創立者であり初代理事長だった岡田桑三さんを始め、林達夫、木村伊兵衛、原弘、中島健蔵といった当時の幹部諸氏は、東方社時代の経験と技術を、戦後の出版文化やドキュメント映画の再建に活かし、それぞれの立場で力を尽くされたのである。また渡辺勉さんも同じ頃、西園寺公一氏と一緒に、B5判のグラフ雑誌『世界画報』を出版している。
 しかし僕は東方社の功績はそうした技術伝承以上に、戦時中の権力との闘い方にあったのではないかと考えている。ほとんどの日本人が右傾化していたあの時代に、国家権力に狙われていた多くの人材をかくまい、その狂気の暴力から救ったことの方に、むしろ隠れた功績があったのではないかと思う。
 戦争を経験していない戦後の日本人に、民衆にとって戦争とはどういうことなのか、そして戦場での戦闘や空襲といった生死の問題だけでなく、日常生活の中で戦争の狂気に逆上した権力者側とどう向かい合うべきか、東方社の軌跡はぜひ記録に残すべきだと思った。