バンドーに訊け! 坂東齢人 本の雑誌社 1997年8月5日 初版第1刷発行 |
初出誌「本の雑誌」一九九一年1月号~一九九七年三月号
好きでしたねえ、この連載もの。大学入試で出てきて、そのまま新宿にある内藤陳氏の有名なお店で働いてしまった、というエピソードとともに、馳星周さんのその後のデビューは衝撃的でした。群ようこさんと挿絵で見るだけでしかなかった木原ひろみさんが同一人物だったというのもびっくりでしたが。
あとがき
恥ずかしさに身もだえしたくなった。『バンドーに訊け!』なる本のために、かつて自分が書いた文章に目を通したときのことだ。特に、最初の一、二年は酷すぎる。こんなものが世間の目にさらされたら、われは首をくくるしかないではないか。
この企画はなかったことにしましょう。
本の雑誌社に掛け合おうと本気で思った。それぐらい、ここに並べられた文章は恥ずかしい。
そんなときに思い出したのは、かつて、目黒考二本の雑誌発行人にいわれた言葉だ。
――おまえにはもう、おまえの書いたものを待ち望んでいるファンがいるんだぞ。
ある時期、ぼくは悩んでいた。自分が読んだ本について好き勝手に書いているだけのつもりだったのに、いつしか、「文芸評論家」という、望んだわけでもない肩書きがついてまわりだしたころだ。
おれみたいな人間が評論家なんていわれるの、間違ってるんじゃないの? そもそも、おれみたいな人間がブックレヴューなんて、やってちゃいけないんじゃないの?
笑う人間がいるかもしれないが、こんなぼくでも悩むときは真剣に悩むのだ。それも、好きな本に関することだから、なおさら真剣に悩む。そんなときに、目 黒孝二と飲む機会があって、酔ったぼくは自分の胸の裡を吐露した。そして、目黒考二がぼくを励ますようにそういってくれたのだった(恐らく、目黒考二はそ んなこと覚えちゃいないと思うけど)。
その言葉で悩みがふっ切れたわけじゃなかったが、そうか、じゃあもう少し続けてみようかとは思えた。ぼくはいたって単純な人間なのだ。
目黒考二の言葉を思い出して、ぼくは諦めた。もう、恥でもなんでもさらしてやろうじゃないの。坂東齢人にもとりあえずファンがいて、その人たちは坂東齢人の書いた恥ずかしい文章でも、喜んでくれるのかもしれないんだから、と。
チャンドラーの流れを汲むハードボイルドに違和感を感じだしたのほどく最近のことだと思っていた。だが、恥ずかしさに身もだえしながら過去の文章に目を通すと、実はそうじゃないということがわかってきて、これは自分にとっても驚くべき発見だった。
91年の8月号で、ぼくはすでに「傍観者のハードボイルドにはついていけない」というようなことを書いている。まだ確固たる小説観を持っていないので 甘っちょろい文章だが、しかし、こんな時期(91年といえば、ぼくは二十六歳だ)から、ぼくはハードボイルドに対する違和感を抱いていたのだよ、なるほど ね。
その視点で読み進んでいくと、坂東齢人が馳星周になって『不夜城』を書くにいたった道筋というものが、おぼろげに見えてくる。アンドリュー・ヴァクス→ 花村萬月→梁石日→ジェイムズ・エルロイ。なるほどぼくは、自分が見つけた道を清く正しく真っ直ぐ歩んできたのである。だからどうした、といわれれば、返 す言葉は持っていないのだが。
自分に対する言い訳はともかく、本の雑誌で書いてきた年月は、忘れがたい。本の雑誌に書き続けることによって、ぼくはなにかを発見し、それに形を与える ことができたのだと思う。本を読む作業と、本について書く作業は明らかに違う。本について書く場所を与えられるかどうかはまったくの僥倖でしかなく、ぼく はその僥倖にぶつかった。ぼくは神を信じないが、なにかに感謝したいと思う。なかんずく、「うちで書いてみないか」と声をかけてくれた目黒考二に、ぼくは 感謝する。
今、日本で一番可愛いバーニーズ・マウンテン・ドッグのマージが、散歩に連れていけとぼくを催促している。マージに出会えたのも、本の雑誌のおかげだ (今村さん、マージは元気ですよ!)。本に関係のない、異様に長いぼくの前振りを、本の雑誌は嬉々として掲載してくれた。そして、その異様に長い前振りを 愛してくれた読者も、確かに存在していたのだと、今では素直に患える。
ありがとう。ぼくがこうしてあるのは、みなさんのおかげです。
一九九七年六月
坂東齢人
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