[NO.278] 慶応三年生まれ七人の旋毛曲り

keiousannenumare.jpg

慶応三年生まれ七人の旋毛曲り
坪内祐三
株式会社マガジンハウス
2001年3月22日 第1刷発行

 いい本です。また、あとから読み返すことになりそう。坪ちゃんも幸せ。こんなテーマで書かせてもらって。

あとがき
 写真家の北島敬三さんからマガジンハウスの大島一洋さんを紹介してもらったのは、今から八年前、一九九三年の確か初春のことだった。
 大島さんはその頃、雑誌『鳩よ!』のリニュアル編集長をまかされていて、秋に予定されていたリニュアルに向けて精力的に動いていた。私はフリーの編集者 兼雑文家とはいうものの、仕事はけっこう暇だった。週の内、半分とは言わないまでも、三分の一以上はぶらぶらしていた。そういう私の怠惰な日常を心配して くれる人間が何人かいた(もちろん私は、私なりに、秘かに、忙しく働いていたのだが)。その内の一人で、しかも一番心配してくれたのが北島さんだった。大 島さんと親しかった北島さんは、新しい書き手を探していた大島さんに「ちょっと面白いやつがいるんだけど」と言って、私のことを紹介してくれたらしい。
 初対面の時は、私と大島さんは、北島さんを含めて三人で、仕事の話そっちのけで、酒場を何軒かはしごして、ただただ酔っぱらってしまっただけだが、二度 目に二人で会った時、大島さんは、私に、いきなり、ツボウチさん何か連載をやらない、と言った。しかも、何本でもイイよ、とまで言ってくれた。
 そうして私は、その年の冬、『鳩よ!』のリニュアル第一号から「芸文時評」の、そして金子一平名儀で「TVウォッチング」の連載をはじめた(前者は『シブい本』〔文藝春秋〕に、そして後者は『古くさいぞ私は』〔晶文社〕に収録されている)。
 共に連載期間は一年だったけれど、そのあとも私は『鳩よ!』に単発書評や亀和田武さんとの対談書評で定期的に登場した。
 対談書評の場や、共に常連である中野の酒場で大島さんと私は、しばしば顔を合わせた。たいていは単なる雑談や業界の噂話ばかりだったけれど、たまには仕事の話もした。そしてある時、大島さんは私に、ツボウチさんそろそろ何か長い連載をはじめない? と言った。
 私はその頃、なかなか結着のつかない、数年越しの書き下し(というかその段階でまだ半分も執筆していなかった書き下し)の『靖国』をかかえていたのだ が、実は、もう二つ、「長い」作品の腹案をかかえていた。その内の一つが、この「七人の旋毛曲り」だった。ただしそれはあくまで腹案で、私はそれをどのよ うに展開するべきかまったく考えていなかった。ただ単にこの七人たちが同い年であることに興味を感じていただけ、というのが正確である。
 しかし、そんな底の浅さはおくびに出さず、私は、大島さんに、漱石と子規と紅葉と緑雨と露伴と熊楠と外骨の七人は皆同い年なんですよ、豪華でしょ、この 七人の生まれてからの歩みをその時代背景と共に描いていったなら面白いと思いませんか、と言った。主人公を複数に設定すれば、ある瞬間の主役が次の瞬間に は脇役に転じてしまうポリフォニックな作品が出来るのではないかと、私は秘かに考えていた。
 それはいいね、面自そうだね、それ、連載で行きましょう、と大島さんは答えた。
 こうして、連載が決まった。一回二十枚、二年間(二十四回)、計約五百枚の分量の。
 ただし、この手の長篇の連載を新人にまかせる場合、昔ならいざしらず今や、企画書というものが必要だ。当時私はまだ一冊の著書もなかった。
 大島編集長もいちおう企画書の提出を求めた。二百字詰め原稿用紙三枚分のその企画書を私は、連載中に何度か眺め直した。ほほえましく思いながら。
 そして、今では少し変色してしまったその企画書を久し振りで眺めた私は、やはり、ほほえましく思う。その大ざっぱさと、そういう「大ざっぱ」をゆるしてくれた大島編集長の度量に対して。
 何が「大ざっぱ」かと言えば、例えば、「第1回 彼らの生まれた慶応3年」、「第2回 明治5年~10年 特に明治5年を中心に、小学校入学、学制及び 戸籍法の施行」、「第3回 明治11年~15年 特に12年、13年を中心に、上級学校に進む」、「第4回 明治16年~17年 紅葉(16年)、漱石・ 子規・熊楠(17年)は大学予備門に入学。露伴は(16年)電信修技学校に入る。緑雨は(17年)假名垣魯文の門下に。外骨は自転車を乗り回しながら様々 な新聞の投稿」などというのはともかく、次の「第5回 明治18~19年」からは「以降第20回 (大正5年)までは2年ずつ進めて行く」というただし書 きのもと具体的記述は何もない。しかもそのあと第21回は「大正6~12年」、第22回は「大正13~昭和6年」、第23回は「昭和6~16年」、最終回 の第24回は「昭和17~30年」といった具合に、さらなる「大ざっぱ」さなのだ。こんないい加減な企画書で、よく大島編集長はGOサインを出してくれた ものだ。
 ただし、ひとこと弁明しておけば、先にも述べたように当時の私はかなり時間の余裕があったから、連載の始まるまでの数カ月の間、足繁く図書館(主に早稲 田大学中央図書館)に通い、時には丸一日も館内にこもり、関連資料を調べ、コピーを取りまくった。その時の蓄積で何とか連載をやり終えることが出来たとも いえる。
 今私は、「連載をやり終える」、と書いた。結局連載は予定二十四回を遥かに越えて、その倍近くの四十四回に達した。しかもようやく明治二十七年八月一日の日清戦争が勃発した所である。昭和三十年七月の宮武外骨の死まで描くはずだったから、まだ三分の一にも満たない。
 考えてみれば、漱石一人だけを主人公に持つあの『漱石とその時代』の江藤淳先生だって全四巻で未完成に終わったわけだから、単純にそれを七倍しても三十巻ぐらいのボリュームが必要なわけだ。まるで伊藤整の『日本文壇史』のようなボリュームが。
 そうそう『日本文壇史』といえば、伊藤整は『出版ニュース』の昭和二十七年十二月上旬号に載せた「処女作自信作ともになし」という一文(『我が文学生活Ⅱ』〔新潮社・昭和二十九年〕に収録)の末尾で、こんなことを書いている。

 二十七年一月から「日本文壇史」という一種の文学史を「群像」に連載中である。これは五年位かかって、昭和の戦前の事まで書くつもりである。

「五年位かかって、昭和の戦前の事まで書くつもり」だった『日本文壇史』を伊藤整は、足かけ十七年かけて、全十八巻で、大正時代までも突入することが出来なかった。そのペースで単純計算したら完結まで三十年ぐらいかかったことだろう。
 だから私のこの「七人の旋毛曲り」も完結まで、もうしばらく時間を下さい。と言いたい所だが、そうきっぱりとその台詞を口にすることは出来ない。
 唐突に思えるかもしれないけれど、いちおう、これはこれで完結したのである。
 私は飽きてしまったのである。
 明治の時代を、その始まりからずっと細かく眺めて行くと、本当に面白いのは明治二十年代半ばまでであることが良くわかる。それ以後は時代が妙に落ちつい てしまう。帝国としての日本はますます繁栄して行くのだが、ある面白さの可能性という点ではどんどん停滞して行く。満年齢が明治の年号と重なる七人男たち の人生の歩みを見ても、それは重なる。子規、紅葉、緑雨の三人は明治半ばで命を落す。漱石と露伴は大家として、しかるべき人たちからの尊敬を受けるが、そ の分、かつての軽さ(というか機動性)を失なってしまう。自室にじっと座って、変りゆく日本の姿を、じりじりと見すえている感じがする。
 変らずにやんちゃ《「やんちゃ」に傍点》に活躍するのは熊楠と外骨の二人だが、この物語は、あくまで七人が主人公である。
 ということで、ひとまず、ここで完結する。
 もっとも、気まぐれな私のことだから、いずれ、また、なにくわぬ顔をして再開するかもしれない。
 繰り返しになるが、あの「大ざっぱ」な企画書に何の文句もつけず、こういう連載を可能にしてくれた『鳩よ!』の元編集長大島一洋さんに感謝する。大島さ んがいなければ、「七人男」たちが同い年であることは、今でも、単に私の頭の中で面白がられていただけで、このように立体化されることはなかっただろう。
  二〇〇一年二月五日
                坪内祐三