[NO.277] 考える人

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考える人
坪内祐三
新潮社
2006年8月25日 発行

あとがき
 この「考える人」は雑誌『考える人』の創刊号すなわち二〇〇二年夏号から二〇〇六年春号にかけて十六回連載したものを一冊にまとめたものです(単行本化に当つての手直しは殆ど行なっていません)。
 あれはたしかその年、二〇〇二年の初めの事だったと思います。
 新潮社の松家仁之さんから連絡があって、同社の近くの洋食屋で、もうすぐ出る新雑誌の連載を依頼されました。
 雑誌の名前は『考える人』でした。
 ずいぶんオーソドックスというか正攻法なタイトルの雑誌だなと思いながら、その正攻法な雑誌で、どのような隙間連載《「隙間連載」に傍点》が可能だろうかと自分なりに考えていたら、松家さんは、実は坪内さんにこのタイトルでと決めている連載があるのです、と言いました。
 それが「考える人」でした。
 私は一瞬、それは荷が重いと、尻込みしました。
「考える人」などという恐れ多いタイトルの連載を、しかも『考える人』という雑誌で行なえるのは、もつとキャリアを重ねた人間で、私のような若僧の仕事ではないと思いました。
 しかし考えてみれば、私は、もはや若くはないのです。
 私の世代、そして私よりひと廻り上の団塊の世代の人たちが、自分はまだ若いと思い続けている内に、きちんと成熟する機会を失ない、いま、日本は、とてもひどい国になってしまいました。
 だから、私は、私なりの成熟を確認するために、そのことを考えてみるために、この連載を引き受けることにしました。つまり私がリスペクトする先人、「考える人」たちの考えを媒介に、自分もまた「考える人」たらんと目指しました。
 私はとても計画的な書き手ですから、本のタイトルや連載内容は、たいていの場合、自分で決めます。つまり、他の人からの指示を受けることはめったにしません。
 松家仁之さんに感謝します。
 松家さんのサジェスチョンがなければ、そして『考える人』という舞台を提供してくれなければ、私のこの『考える人』はけっして生まれ得ることはなかったでしょう。松家さんは『考える人』の生みの親です。
 その生みの親に対して、連載及び単行本の担当者、すなわち育ての親は、新潮社出版部の金寿煥さんです。
 私より二十歳近く年若い金さんは(本文中に登場するK青年が金さんです)、たぶんこのような連載を担当するのは初めてだったと思いますが、こちらのかなり気ままな執筆ペースによく伴走していただきました。
 編集者は最初の読者であると言いますが、金さんは、まさにその通りの人でした。私は「最初の読者」である金さんのことを常に念頭に置きながら、この「考える人」の連載を続けました。
 連載を始めるに当って私の中で秘かに決めた約束事が幾つかありました。
 その内の一つは、自分の同時代人であることです。
 つまり、のちに活字を通じて知った「考える人」たちではなく、私が生きてきたこの同時代に同じ空気を吸っていた人たち――たとえ同時代的にその人たちの文章は読んでいなかったとしても――に登場してもらいました。
 それは私が、「考える人」を解釈するのではなく、彼らと共振したいと思っていたからです。
 先に私は、単行本化に当っての手直しは殆ど行なっていません、と書きました。
 計画的な書き手である私は、いざ筆を執りはじめると、思考を、筆の動きにゆだねます。
 その軌跡を、考えの動きを、あとで、形良く修整することを行ないたくなかったのです。その軌跡そのものがすなわち「考えること」のあり方であり、私の好きな「考える人」たちは皆そのような意味で「考える人」であったはずなのだから。
 改めて松家仁之さんと金寿煥さんに感謝します。

       二〇〇六年七月二十四日 坪内祐三

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【追記】2016年3月 5日
再読後に感想文を『考える人』再読 としてUPしました。リンク、こちら