[NO.257] 古書法楽

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古書法楽
出来根達郎
中公文庫
1996年1月5日印刷
1996年1月18日発行

以下に引用する緑雨と一葉のやりとりについて、有名な逸話ですから、出久根さん以外、ほかにも記しているものを目にしたことがあります。けれども、その次に引用した正岡容のものは、珍しいので、併せて抜粋しました。

p161
僕本日めでたく死去したし候――斎藤緑雨
『たけくらべ』『十三夜』等で文名いちじるしき樋口一葉がもとに、正直正太夫なる男から手紙が届いた。話したきことあり、出向かれたしと誘いの文面である。一葉は独身のうら若き女性ゆえ、男を訪(と)うぶしつけはできぬと断った。すると折返し手紙があって、当世の批評家がボンクラなこと、作家がやくざなこと、君をとりまく若い文人どもを追い払うべし、彼らは油虫なりとあった。よけいなお世話である。一葉は日記にこの男「今、文豪の名を博して、明治の文壇に有数の人なるべけれど、其(その)しわざ、其手だて、あやしき事の多くもある哉(かな)」と記した。
 怪しき男は数ヶ月後、一葉を訪ねてきた。以来、頻々とやってくる。来ては一方的に文壇の悪口をならべ、江戸趣味の滅亡をうらむ。
 この男の訪問は噂になった。一葉の「油虫」たちは、あいつは気味悪い男、心許すなと忠告した。しかし一葉は、「親しみは千年のなじみにも似たり」と記し、「世はやうはやうおもしろくも成にける哉」とはしゃいだ。憎からぬ客人であったのだ。
 正直正太夫、本名は斎藤賢(まさる)、緑雨と号した。明治二十年代の作家であり、辛辣を以て鳴る批評家でもあった。一葉より四つ上の、この年二十九歳。世に聞こえた彼の毒舌は、たとえばこんな調子であった。
「それが何(ど)うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文学といはず」
「使ふべきに使はず、使ふべからざるに使ふ、是れ銭金(ぜにかね)の本質にあらずや」
「女を説くは智力金力権力腕力この四つ」
「宇宙広しと雖も間違ッこのないものは我恋と天気予報の『所に依(よ)り雨』」
 以下の警句は現代に向けたのかもしれぬ。
「無鑑札なる営業者を俗にモグリと謂ふ。今の政党者流は、皆このモグリなり。鑑札無くして売買に従事するものなればなり」
「官吏も商ひなり、議員も商ひなり、一(いち)として商ひにあらざるは莫(な)し。商ひの盛んなるは売買の盛んなるなり。売買の盛んなるは金銭授受の盛んなるなり。要するに商業は金銭也。商業より金銭を離脱せよといふは、天下比類なき不法の註文也。況んや各自、商業の発達を企図としつゝあるに於てをや。金銭重んずべし、崇ぶべし、百拝すべし。日本は世界の商業国たらざる可からず」
「明朝、米を買ふの銭は工面するに難く、今宵(こんしょう)、女を買ふの銭は算段するに易し。上下誰しも事なり、嘘とおもはゞ実験すべし」
「憐むべし貧の堕落は一人(いちにん)の堕落なれども、憎むべし富の堕落は一国の堕落なり」
 緑雨は江戸の通人を自認した。木綿絣の羽織の裏地は甲斐絹(かいき)という、江戸っ子特有のおしゃれを愛した。下駄は必ず伊勢よしで調え、頭は薬研堀(やげんぼり)の勝床にまかせた。天ぷらは横山町の丸新、鳥は浜町の筑紫、鰻は和田平ときめていた。西洋料理をうまがる輩を田舎者と軽蔑した。吉原(なか)に行っても女郎とは遊ばず、引手茶屋で酒をのんで帰った。それが通人の遊びだと粋がるのである。もっとも女を嫌い無妻主義を標榜していた。そんな男が、なにゆえ一葉に近づいたのであろう。一葉の毅然とした立居振舞や文章に、江戸下町娘の面影を見つけ、いわばおのが「同志」と目したのではあるまいか。
 彼らの交遊はたかだか半年にすぎない。緑雨の七度めの訪問を叙し、一葉の日記は突然(「突然」に傍点)おわる。一葉が死んだのである。
 緑雨は一葉全集の出版に尽力した。一葉の妹の仲人もつとめた。きみ悪き男は、事実はかくの如き世話ずきのお人よしであった。世をすねた風の渡世ぶりが、はた目に変人としか映らなかっただけである。ただし、最後に「あやしき仕わざ」をしでかした。新聞に自分の死亡広告をだして死んだのである。前代未聞の文面は、『僕本月本日を以て目出度(めでたく)死去致候間此段広告仕候也 緑雨斎藤賢』。
 めでたいとは俗世間への当てこすりであろう。遺言により葬儀は執行せず。享年三十七。

p171
『楽しみは春の桜に秋の月 夫婦仲好く三ど食ふ飯』人生の快楽はまことこの以外にはみいだされない(正岡容)