| 見仏記 三十三年後の約束 いとうせいこう、みうらじゅん 著 KADOKAWA 260頁 |
見仏記 三十三年後の約束
二〇二五年、三月三日。
私は待ち合わせ時間の二〇分ほど前に東京駅に着き、新幹線改札を入った先にある待合室の椅子に腰をおろした。ホームへ上がったところで、乗車する便はまだ入ってきていないか、清掃中に決まっていた。
しかしそれでも同じような時刻にみうらさんがホームにいることを、つい先日も私のマネージャーから聞き及んでいた。みうらさんは近頃よく持っているトランクをがらがらさせつつ、もう一方の手に弁当の入ったレジ袋を提げているに違いなかった。その体勢でみうらさんは目当ての新幹線の扉が開くのをじっと待っているのだ。
我々はどちらも旅が楽しみで仕方がなかった。だから我々はどちらも指定時間よりよほど早く東京駅で待機する(かつては「銀の鈴」で待ち合わせた数年もあった)。
ただし開きもしないドアをじっと見つめて立つみうらさんと、とりあえず新幹線ホームの近くまで来ておいて座って待つ私とでは、行動原理が違った。この違いはなかなかに重要で、いわば遅刻の不安を忌避するやりかたの好みとか、体力の使い方とか、相手への気遣いのそれぞれのありよう(「来てたら悪いな」なのか、「来てないふりをしておこう」なのか)なのだが、一致しているのはどちらも相手に自分の流儀を強要しないことだった。
そのおかげで三十三年間、二人はひたすら雑談を続け、同時に仏像を見つめて続ける旅を行ってきたのだ。
「そう、三十三年」
私は待合室にいながら何度もその数字を頭の奥で反復した。
この描写を踏まえておいて、次を読むと格別です。(実際の時間は前後していますが)。
待合室にいながらも、見仏の相棒が何をしているか、私は手にとるように想像できた。
たぶんずいぶん早くに起床してしまって家を出、東京駅構内で時間をかけて駅弁を買い、乗車予定の新幹線はまだ当分来ないのにそれをホームにある待合室できょろきょろしながら待ち受け、ひょっとすると速めに着いた車体に乗り込んで、大急ぎで弁当をかっこみ、すました顔でまたきょろきょろ、今度は席から外を見ているのである。
絶対にそうだ。
私にはわかる。
正確には三十二年、そうしてきたのだから。
やがて発車十分前、私はみうらさんをじらすのをやめて立ち上がり、ひかり633号が来るはずのホームへと移動した。エスカレーターを上がっていくと、すでに新幹線は来ていた。
そしてチケットの示す席を目指していく私の目の前には、想像と寸分も違(たが)わない洒落(しゃれ)たソフト帽をかぶんたヒゲ面のみうらじゅんがホーム寄りの席にいて、こぼれるような笑みを浮かべた顔をガラスにつけんばかりにして遠くからこちらを見ながら、うれしそうに手を振っているのがわかった。
彼の目の前の車内テーブルには、すでに食べ終えた弁当の殻が置いてあった。
これを書いているあいだ、さぞ楽しかったのではなかったでしょうか。最後の着地点フレーズ〈彼の目の前の車内テーブルには、すでに食べ終えた弁当の殻が置いてあった。〉に向けて、あざといほどに比喩を効かせた描写と説明がたたみ込みます。
その読ませる文章についページを繰る手が進みました。
三宅香帆著『文体のひみつ なぜあの人の文章はつい読んでしまうのか?』なんて本が売れているそうですが。いとうせいこうさんの書く文章は、うまいでのすよね。ついひきこまれます。
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書籍としての構成が秀逸なのは、表紙(これだけでもう、十分にキャッチーなんですが)をめくると目に飛び込んでくる内扉見開きのパノラマのような絵巻物風写真です。
アノ三十三間堂前の庭を埋め尽くす大勢を前に、有名な長い廊下を左右に分かれて立つみうらじゅんといとうせいこう(こちらはすでに歩き始めている)。このあたりの事情は、説明を読めば読むほど納得します。
ほぼ全員が両手を掲げて手にしたスマホで撮影している様子は壮観。
KADOKAWAオフォシャルサイト 内に「試し読みをする」ページがあって、剛毅なことに30頁も公開されています。リンク、こちら
三十三間堂のシーンは、さらにYouTubeやInstagramの動画でも見られました。さすが。
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