[NO.1625] 黒後家蜘蛛の会3/創元推理文庫

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黒後家蜘蛛の会3/創元推理文庫
アイザック・アシモフ池央耿
東京創元社
1981年02月27日 初版
2014年10月03日 25版
新版 2018年08月10日 初版
413頁

ニューヨークのミラノレストランで、6人のメンバーが毎月1回夕食会を開いている。毎回ひとりのゲストを招き、話を聞く。その話というのが、日常経験した謎めいた出来事。メンバーは勝手気ままに話し合うが、結論は出ず。そこで控え目に登場するのが、給仕のヘンリー。手際よく解答を示して解決。謎は、どれもが日常の出来事で、殺人事件などとは無縁です。これが毎度毎度繰り返される短編集です。

本書第3巻、第1話「ロレーヌの十字架」なんて、拍子抜けしました。これが正解なの? って感想です。(笑) ガソリンスタンドのロゴなんてねえ、です。でも、次の作は? って具合にページをめくるのが病みつきになります。

今回、久々に読んでみて、思っていたよりも古風な文体(訳文も?)に驚きました。

当会の仕来りではここでゲストに何をもって自身の存在を正当とするかと尋ねる......

なんて、中2病みたいな台詞です。今よりも古くさい訳文だったころのホームズが披露する、論理的な思考(?)ってやつとか、正確な観察についての蘊蓄などにも、そんな香りがしていたような記憶があります。

毎月の食事会で交わされる話の内容は、英国の紳士クラブそのもの。数学者ロジャーが口にする諧謔五行詩(リメリック)なんて、いかにもです。

〈黒後家蜘蛛の会(ブラック・ウィドワーズ)〉会員
ジェフリー アバロン、 特許弁護士
トーマス トランブル、 暗号専門家
イマニュエル ルービン、作家
ジェイムズ ドレイク、 有機化学者
マリオ ゴンザロ、   画家
ロジャー ホルステッド、数学者
ヘンリー ジャクスン、 給士

 ◆ ◆ ◆

巻末、「訳者後書き」と、東川篤哉さんによる「解説」の2編(?)が秀逸でした。もしかすると、本文(?)よりも、読ませてくれるかもしれないなどと考えてしまいました。

「訳者後書き」では、『黒後家蜘蛛の会』について、きもちのよい考察を披露してくれます。「衒学的」なる語句、久しぶりに目にしました。「訳者後書き」も十分、「衒学的」です。大岡昇平が(小説新潮・昭和53年12月号)で、給仕役ヘンリーを評して「へんな学者よりボーイが一番明敏であるのは、西洋には古くからある話の型で、多分サンチョ・パンサ以来、主に南欧で発達した。日本にはまだ輸入されていないようだが、実際にそういう人物がいるかいないかの問題ではなく、お話として常に愉快な感じを与える。」

「訳者後書き」の最後には「高座」などという語句まで飛び出しました。「高座の話芸」といわれて、いまどき、いったいどれだけの読者が理解できるでしょう。

P406
〈黒後家蜘蛛〉の面白さは何よりもアシモフの話術そのものにあることを賢明な読者は先刻ご存じのはずである。

これじゃ、まるでかつての「小沢昭一的こころ」ですよ。はなしはアシモフの話術から、『黒後家蜘蛛の会』の文章の特徴へと続きます。

(上記抜粋「~先刻ご存じのはずである。」につづく)だからこれも蛇足だが、ことのついでにアシモフの話術について一つだけ触れておくと、このシリーズにおいては、いわゆる情景描写と呼ばれる文章がほとんど使われていない。もしあるとすれば、それは当夜のゲストの風貌とメンバー各人の癖、それに料理の中身に限られると言っていい。あとは全編が会話で成り立っているのである。これが、探偵が現場に出かける話であれば、作者は街の情景や建物のたたずまいや、はては頭像人物の心理にいたるまで、描写ということに多く筆を費やさなくてはならないが、アシモフはそれを排してすべて直接話法を使い、テーブルを囲んだやりとりの様子を読者の想像に任せている。これは日本における高座の話芸に一脈通じる省略の話術と言うべきものではなかろうか。それかあらぬか、時としてヘンリーの真相解明はミステリの解決であるよりも、咄(はなし)の下げに近いという気がしないでもない。(一九八〇・一二)

端正な随筆風「訳者後書き」にくらべ、東川篤哉さんによる「解説」は一気にくだけたものです。これはこれで楽しい読み物でした。

東川篤哉さんといえば、『謎解きはディナーのあとで』。終始、宝生麗子と執事影山の掛け合いです。これじゃあ、まるで「訳者後書き」で指摘している「高座の話芸」ですよ。いや、夫婦漫才か。

P410
しかしながら、お嬢様、これもまた立派な本格ミステリなのでございます。日本では北村薫氏の登場によって、本格ミステリにおける一ジャンルとして確立された感のある、いわゆる『日常の謎』。この分野における代表作といえば、まず何を措(お)いても、この『黒後家蜘蛛の会』であると断言してよいものと思われます。(途中略)
けっして派手とはいえないこの連作短編集が、作者の没後四半世紀を過ぎてなお世界中で、特に日本のミステリファンの間で、ある種の《聖典》として読み継がれ、いままた新装版まで刊行される。

その理由が、景山の口から展開されます。

それはズバリ『黒後家蜘蛛の会』という作品が本格ミステリファンにとっての、ひとつの理想郷を提示しているからでございます。(途中略)
そもそもミステリファンならば、誰しも自ら魅力的な謎に遭遇したいと願うもの。そして仲間たちとその謎について議論を重ね、論理的な解決に導いてみたい。そのとき、他のみんなを出し抜いて自分ひとりが真相にたどり着けたなら、どれほどの快感であるか。