[NO.1615] 中野のお父さんと五つの謎

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中野のお父さんと五つの謎
北村薫
株式会社 文藝春秋
2024年02月10日 第1刷発行
301頁
装画・本文挿絵 増田ミリ
装丁 大久保明子

中野のお父さんシリーズの最新作。またもや今回も謎解きストーリーの面白さに引き込まれ、気がつくと一気読みでした。夢中で読み終わり振り返ってみて、あらためて紹介された本のぜいたくなラインアップに驚くのでした。前にもやったように、また作品中に取り上げられた本の索引をつくりたくなりました。

全部で5章、そのどれもが魅力的なモチーフというか、文学にまつわる謎が中心に据えてあって、それを解いていく登場人物たちがまた魅力的です。毎回、おなじみのところ(水戸黄門や銭形平次などの時代劇ドラマにあったようなおなじみのお約束)がちょうどいい雰囲気をかもしだしています。するすると読め、気がつくと、あれっ? ということになってしまって、ページを巻き戻す? ことに。まるで、BBC制作の字幕版ミステリードラマを見ているかのようです。つい画面から目を離したため、字幕を読みそびれて、ストーリーが飲み込めなくなったときにような、そんな感じです。

文学好き、古本好きにとって、この中野のお父さんシリーズはたまりません。まあ、著者のデビュー作『空飛ぶ馬』から、ずっと同じ手法と言ってしまえば身も蓋もありませんが。

 ◆  ◆

面白さでは、最後の第五章「芥川と最初の本」が一番でした。もっとも、ショーウィンドーに並んだケーキの中から選んできた詰め合わせで、どれがおいしかった? と聞かれ、答えているみたいです。

第1章の「漱石と月」は、『本の雑紙』連載「ユーカリの木の蔭で」に以前、北村さんが書いていた『140字の文豪たち』(川島幸希、秀明大学出版会)と、「漱石と月」にまつわる話をすでに読んでいたので、あああれのことだな、と思い当たりました。

するとたまたま、書店に入ると、こんな「カード」を見つけました。

超翻訳ゲーム アイラブユーなんてゆー?』(おもしろ村 ゲームデザイン著、幻冬舎刊)

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幻冬舎の出版社サイトにある紹介ページから、惹句を引用します。リンク、こちら

夏目漱石が I love you.=月が綺麗ですね と訳したように、
日本語カードでホンヤクを作り、お題の英文を伝えます。
組み合わせが限られるため名ホンヤクに迷ホンヤクが誕生し、ワイワイと遊べます。

お題はピンチの場面やデートで使えるセリフ、おしゃれなことわざなど40題を収録。

漱石による例の翻訳は、すでにここでは既定の事実として扱われています。幻冬舎のサイトでの文言です。

ちなみに文藝春秋の出版社サイトにある「担当編集者より」によれば

英語の〈I love you〉を夏目漱石は〈月が綺麗ですね〉と訳した――こんな話を聞いたことはありませんか? 世間に広まっているこの"漱石訳"、じつは根拠のない伝説なのです。
では、このエピソードはいつから、どうして定着したのでしょう? それを、お父さんは中野の自宅に居ながらにして見事に解き明かしてくれます。

つまり、漱石はそんなことを言ってはいなかったのです。都市伝説みたいに伝播していく様子を教えてくれます。こわいのは、こうした商品として後世に残されることでしょう。幻冬舎という出版社が出しているのです。こんな「カード」なら、下記の万太郎の俳句「カード」の方が、よほど好ましく思えます。

 ◆  ◆

今回、いちばんピンときたのは久保田万太郎の句でした。

P179
「いいだろう? 溝(みぞ)活版というところが出した『名刺判・久保田万太郎句抄一〇〇』だ」
遠目に見ると、まさにお正月のかるた取りかと思ってしまう。

いてどけのなほとけかねてゐるところ
旅びとののぞきてゆける雛(ひいな)かな
時計屋の時計春の夜どれがほんと

と、時が流れる。それぞれの句に、味わい深い絵がついている。

神田川祭りの中をながれけり
梅雨の猫つぶらなる目をもちにけり
  たまたま(繰り返し記号)逢ひし人の、名をだに知らず
時雨傘さしかけられしだけの縁

そして、

いまは亡き人とふたりや冬籠
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
竹馬やいろはにほへとちりぢり(繰り返し記号)に


この『名刺判・久保田万太郎句抄一〇〇』なるもの、当時7000円の値がついていたのを見つけました。限定100部ですから、当然今となっては入手できません。展覧会もあったという記事をネットで見つけました。 

◆  ◆

P203
 魚屋さんと魚のように、昔の人にはすぐ分かる職業であり、品物だったのだ。もっとも街の魚屋さん――という形も、今では少なくなっているけれど。

これには驚きました。「形」です。「~という形」です。

テレビのインタビューに答えることばに頻出するようになったのは、いつごろからでしょうか。この「形」という言い方。「なっています」と結びつくと、もっとぴんとくるでしょう。「~という形になります」の言い方です。「ばっさり切ってしまって」、「~です」じゃ、なぜいけないんだ? とひとり、つぶやいていました。

店員さんとのやりとり、「~でよろしかったでしょうか?」以来の、それこそ「金を払ってでも使いたくないシリーズ」に連なる「言い回し」です。「~という形になります(なっています)」。

ここで書いているのは北村薫さんです。軽薄そうな店員さんではありません。そこで、ふと考えつきました。「形」は「形態」を言いかえたものではないのかな。ここで使われている言い回しを、あえて言いかえるとするなら(そんな大層なものではありませんが)、「もっとも街の魚屋さんという形態も、今ではすくなくなっているけれど。」、これでしょう。なるほど。これなら納得できます。

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巻末
初出誌「オール讀物」
漱石と月 2021年9・10月号
清張と手おくれ 2022年6月号
「白浪看板」と語り 2023年1月号
煙草要れと万葉集 2023年3・4月号
芥川と最初の本 2023年9・10月号