読み通せなかった『いずれすべては海の中に/竹書房文庫』と『世界の中心で愛を叫んだけもの/ハヤカワ文庫SF892』

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ともに、短篇集です。

いずれすべては海の中に/竹書房文庫
サラ・ピンスカー
市田泉
2022年06月07日 初版第1刷発行
454頁

私のベスト3 春日武彦 本の雑誌2023年1月号 初詣大ジャンプ号 No.475 特集=本の雑誌が選ぶ2022年度ベスト10

② 『いずれはすべて海の中に』サラ・ピンスカー(市田泉訳/竹書房文庫)
短編集である②は、奇想系ないしはSFに分類されるのだろうか。孤独感や切なさが通奏低音として響いており、しみじみとした読後感に囚われる。個人的には、電動式の義手が長さ九十七キロのハイウェイそのものになった感覚を獲得してしまう「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」が好き。

WEB本の雑誌
【今週はこれを読め! SF編】「語られない部分」を活かす技巧が冴えるピンスカーの短篇集
文=牧眞司

冒頭の「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」は、一風変わったサイボーグSF。コンバインの事故で右腕を失った青年アンディは、新しく開発されたロボット義手を装着する。その義手がどういうわけか、自分は道路だと思いこんでいるのだ。義手の衝動と熱望がアンディの気持ちへ、ひたひたと浸透してくる。
2022年6月21日12:26

短編作品「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」、これだけ褒められれば読んでみたくなります。で、感想は、面白かったです。ただし、こちらの書評を誤読、早とちりしたことが原因ですが、予想とはちょっと違った展開に、あれ? と思ったところもありました。

春日さんは「電動式の義手が長さ九十七キロのハイウェイそのものになった感覚を獲得してしまう」と紹介していました。それをメタモルフォーゼのように本当に変身してしまったのだと思い込んだのでした。

「自分は道路だと思いこんでいるのだ」と牧さんも書いています。

それでも、脳に送り込まれる道路の感覚によって、不思議な気分に掻き立てられます。

P.016
 道の手で馬に食べさせる穀物をすくい、左手で馬のもっさりした冬毛を撫(な)でた。道の手で農機具にオイルを指した。両腕を使って、固めた干草(ほしくさ)や穀類の袋を放り投げた。ガレージでトラックの整備をした。別のトラックが何台か、雪の降るコロラドのハイウェイをゆっくり走っていて、そのハイウェイはケーブルと電極によって、彼の脳からなぜか心(ハート)に達した人工の経路によって、アンディにくっついている。アンディは凍てついた自宅のドライブウェイに横たわり、両腕を脇につけて、トラックがガタゴトと次々に通り過ぎるのを感じた。

違いはあるけれど、J・G・バラードの『結晶世界』などに通じる感じかな。ブライアン・W・オールディスに似ているともいえるか。

結局、こんな混乱を招いた原因は、「頭のチップの周りにひどい感染が起きてた」のがいけなかったとのこと。チップを入れ替えておしまい。もう、幻想は感じられません。

ところで、これは本筋とまったく関係ないのですが、おやっと思ったことに、ガールフレンドのスーザンの仕事が、タトゥーショップを開いていることがありました。先日見た映画、『NOPE/ノープ』にも、女性がタトゥーショップを開いているという設定があったような。

世界の中心で愛を叫んだけもの/ハヤカワ文庫SF892
ハーラン・エリスン
浅倉久志伊藤典夫 訳
早川書房
1979年01月31日 発行
2010年07月15日 15刷
511頁

短編「世界の中心で愛を叫んだけもの」を読了しました。(それと冒頭の「まえがき」も読みました)。

P502
ハーラン・エリスン
一九三四年生まれ。結婚三回、離婚三回。子供なし。著書十三、編書一。雑誌に寄稿した小説、エッセイ、ノンフィクションは五百篇余。長編第一作では、バックグラウンド取材のため変名で不良少年の一味に潜入。TV番組「アンクルから来た男」「宇宙大作戦」「ラット・パトロール」「ボブ・ホープ・クライスラー劇場」「バークにまかせろ」「アウター・リミッツ」「原子力潜水艦シ-ビュー号」「バットマン」「ハニーにおまかせ」「ルート66」「アンタッチャブル」「ヒッチコック劇場」のシナリオ作家。映画「哀愁の花びら」「夢の商人」「カディム」のシナリオ執筆、ほかに共作で「オスカー」。しかし本業はあくまで小説家。時間、場所をとわず、あらゆるチャンスに賭ける。人生は借りものであると信じる。ル・マン・モデル、オースチン・ヒーリイを駆り、狩猟し、喧嘩し、女性への愛は選り好みなし。公民権運動のデモに参加し、ジョン・バーチ協会をたたき、映画批評、ジャズ批評も手がける。一九六六年は当たり年で、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ハリウッド作家協会の最優秀TVドラマ賞を受賞。ひげを剃る暇もない。

 短篇集『おれには口がない、それでもおれは叫ぶ』I Have No Mouth, and I Must Scream(一九六七)の見開きからの引用。

ここに挙げられた懐かしいTV番組名の数々。そのほとんどが、大ファンだったことを思い出しました。まじめなSF作家ばかりのなか、なかなか目立つ経歴なのがハーラン・エリスンなんだだそうです。へーえ。

なによりも確認しておきたいのが、書かれた年について。表題作『世界の中心で愛を叫んだけもの』は一九六九年度ヒューゴー賞短篇部門受賞です。アポロ11号が月へ行き、ウッドストック・フェスティバルの開かれた1969年です。ぶっとんでなくてどうする? 

ヴォネガット『スローターハウス5』が同じく1969年。

イメージとしては、1968年に公開されたキューブリック『2001年宇宙の旅』を思い出させてくれます。サイケデリックなところとか。

この作品集には、収録作品と並んで有名になった「まえがき」があります。そのなか、短編作品「世界の中心で愛を叫んだけもの」について言及しているところを抜粋します。

P11
 表題作『世界の中心でエトセトラ』は、実験的作品である。これは、ぼくにとって手法と構成の両面において重要な意味を持つ新しい出発点であったが、さいわい読者の多くはぼくについてきてくれ、ぼくが主題を充分いいつくせるかどうか最後まで見届けてくれた。(途中略)
 これは物事の順序にのっとった小説ではない。全体が円環を描くように構成され、さまざまなできごとが、車輪のリムの上にあるかのように同時におこる。といっても、それらのできごとの同時性は、時間、空間、次元、思考といった人間的限界を超越したものである。そして最後には、すべてが中心、つまり車輪のハブに収束する。
 さて。この二、三年、スペキュレイティヴ・フィクションの「アバンギャルド」は、一部の批評家が傾向の異なる多くの作家をおおざっぱに分類するために濫用する「新しい波(ニュー・ウェイヴ)」なるラベルに悩まされてきた。(以下略)

P13
 しかし、ぼくがスペキュレイティヴ・フィクションと呼び、あなたがサイエンス・フィクションと呼び、うすばかどもがサイ=ファイと呼ぶ分野に、何かが起こりつつあることは事実である。[「何かが起こりつつある」に傍点](以下略)

ぶっとんだ「時代」に、ぶっとんだ「作家」が(ハーラン・エリスンは、薬やアルコールに依存しないでトリップできる作家と呼ばれたことさえあります)、あえて「実験的作品」と呼ぶ
のです。短編作品「世界の中心で愛を叫んだけもの」の位置がわかるというものでしょう。

この「まえがき」を読むまで、ずっと忘れていました。「スペキュレイティヴ・フィクション」なるワード。1970年代初頭、SFという呼び名は、スペキュレイティヴ・フィクションなんだということを声高に主張している文章がたくさん出回ったことがありました。安っぽいスペース・オペラものとは違うんだぞ、こっちは精神性の高いものを扱うんだ! みたいな含みがありました。今から振り返れば、SFファンも精いっぱい背伸びしている感じがします。

付け加えれば、本書の翻訳自体も50年前のものでした。

P511
本書は、一九七三年七月にハヤカワ・SF・シリーズより刊行された作品を文庫化したものです。

「新しい波(ニュー・ウェイヴ)」を目にしたときに、めまいのような感覚に襲われました。ニュー・ウェイヴなるふりがながない「新しい波」だけを見ただけでは、なんのことやらわかりにくいのではないでしょうか。

当時のSFを扱った翻訳文章を読んでいて、「新しい波」という単語が何度も出てくるものがありました。「新しい波が訪れた」といった使われ方であれば、まだわかりやすいのに、それは海の向こうの某SF作家へのインタビュー記事だったのです。名詞として何度も出てきて、困惑しました。

そういえば、1969年ころって、そんな雰囲気がありました。たとえばジョン・レノンのインタビューとか。今思えば、わかりにくくて当然だと理解できます。そんな勢いのインタビューのなかで「新しい波」と言われてもねえ。