[NO.1594] 画文でわかる モダニズム建築とは何か

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画文でわかる モダニズム建築とは何か
藤森照信
宮沢洋
彰国社
2022年05月10日 第1版発行
126頁

本書を読むきっかけは『本の雑誌2023年1月号』31人の「私のベスト3」の春日武彦さんのものでした。ベスト3のうち、第3位として本書を取り上げています。

P81
以前からアール・ヌーヴォーや未来派、バウハウスなどの相互関係が判然としなかったのだが、③(本書のこと)で氷解! ああそうだったのかと腑に落ちる快感を提供してくれた。

どうでしょう。こんなにも魅力的な推薦文はめったにありません。春日さんのこれにやられてしまいました。

当方のレベルときたら、アール・ヌーヴォーとアール・デコの違いさえ怪しいほどです。そのくせ、未来派だとかバウハウスなんて言葉にあこがれてしまいます。そんなところへ「アール・ヌーヴォーや未来派、バウハウスなどの相互関係が」「氷解! ああそうだったのかと腑に落ちる快感を提供してくれた」というのです。もう読むしかありません。しかもタイトルに「画文でわかる」とあるのですから、難しい単語に対するハードルも下がるかもしれません。

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最初に目にしたときは、かつて現代書館から出版された「フォー・ビギナーズ・シリーズ」を思い出しました。ちょっと図版のレイアウトが似ているような気がしました。これはあとから思い出したことなのですが、「フォー・ビギナーズ・シリーズ」を思い浮かべたことは、あながち見当違いでもなかったかもしれません。なぜなら、『画文でわかる モダニズム建築とは何か』では、マルクス、アインシュタイン、フロイトの名前を出して、「共時的」な視点から論を展開しているのです。

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本書『画文でわかる モダニズム建築とは何か』の生まれた経緯というのが、ちょっと変わっています。そもそも本書の著者が「藤森照信 文/宮沢洋 画」とありますが、これだけではわかりにくいので、本書の冒頭で宮沢さんが説明している前書きの部分を抜粋します。

P3
はじめに
『人類と建築の歴史』の衝撃

 本書は、建築史家・建築家である藤森照信氏の著作『人類と建築の歴史』(筑摩書房、2005年)の第6章「二十世紀モダニズム」と第5章の一部を、画文家の宮沢洋がイラスト化し、藤森氏へのインタビューなどを加えてまとめたものである。
 この「はじめに」を書いているのは、イラスト担当の宮沢である。この企画は、私が藤森氏と出版社(彰国社)に持ちかけて始まった。
 宮沢は現在、建築分野を中心に活動しているものの、建築の専門的な教育を受けていない。理系ですらない。1990年に早稲田大学政治経済学部を出て、日経BPという出版社に就職。たまたま「日経アーキテクチュア」という建築専門雑誌に配属された。そこで建築の面白さに目覚め、30年間、国内外のさまざまな建築を取材した。そして、この面白さを今度は一般の人にも伝えたいと考え、得意としていたイラストを武器に、「画文家」として独立した。
 何を言いたいかというと、藤森氏の「人類と建築の歴史」は、画文家として独立する際に、最も強く「描きたい」と思った題材だったのである。
 この本を知ったのは、発刊から10年ほどたった2015年ごろだった。読んで衝撃を受けた。藤森氏の著作の思ったは、有名な「建築探偵」シリーズをはじめ、何冊も読んでい知っていたつもりだった。この本はそれらとはちょっと違う。人類史の起源から現代建築までを一つの軸の中で語る壮大な読み物なのだ。それでも、いつもの藤森氏のように筆致は軽く、1日あれば読める。
 その中でも強く心を惹かれたのが、書籍の最終章である第6章「二十世紀モダニズム」だった。1日で読める全6章の書籍の中の、たった1章が「モダニズム建築」なのである。たぶん、原書の第6章は20~30分で読める。そのわずかなボリュームの中で、モダニズム建築の誕生から拡大、拡散までを語るわけだから、疾走感がすごい。それでいて全体を貫く軸はしっかりしていて、「なるほど!」と腑に落ちる(それが何なのかは本書を読んでほしい)。
 ああ、これをイラスト化したい。多くの人に読んでほしい。
 そんな思いにかられ、藤森氏や編集担当のK氏に提案したところ、賛同してくれた。すばらしい原作のイラスト化は、実に楽しい作業であった。
 素晴らしい原作だが、実は、読んでいて1点ひっかかっていたことがあった。その点については、藤森氏にインタビューでぶつけ、これも「なるほど」という解説をいただくことができた。インタビューを先に読んでから本編を読むのも楽しいかもしれない。
 本来、謝辞はあとがきに書くものだが、この一風変わった企画を快諾してくれた筑摩書房にもこの場を借りて深くお礼を申し上げたい。
                       宮沢 洋

熱い思いが伝わってきます。著者がほれ込んでつくった本です。それでつまらないわけがありません。

文中でいっている藤森氏へのインタビューは、本書の最後に収められています。構成を知るためにも、目次も抜粋します。あわせて、ページの薄さを確認できます。

目次
はじめに 『人類と建築の歴史』の衝撃 宮沢 洋  3
第1章 歴史主義建築はなぜ消えたのか  7
第2章 モダニズムと日本の伝統  33
第3章 人間の造形感覚  51
第4章 振り出しに戻った人類の建築  65
補講1 大宗教時代の建築を考える  中国や日本の寺はなぜ横長になってしまったのか  91
補講2 藤森照信塾長に聞く  「神は死んだ」からの「原点ゼロ」  107
おわりに 藤森照信  124


思わせぶりに宮沢さんが「1点ひっかかっていたこと」といっているところのネタばらしをしてしまえば、その答えは巻末の藤森氏へのインタビューで明かされています。

宮沢さんが、『人類と建築の歴史』の中で、「ル・コルビュジエが一度も出て」こないのはなぜか、と質問しているのが、それです。意図的に抜いたのか、忘れてしまったのか、どっちなんでしょうか、ってあまりにも単刀直入です。(以下抜粋)

P118
コルビュジエは、モダニズム建築誕生の上ではそんなに大した働きはしていない。
なぜかと言うと、コルビュジエの大きな影響を受けた国は、日本、インド、ブラジル......発展途上の国だけです。
 コルビュジエの活動拠点であったフランスすら影響を受けてませんよ。今は大事にするようになったけれど、フランスのボザールはずっと拒んでいた。アメリカだって影響は受けていない。圧倒的に受けたのは日本です。
 基本的には私は、20世紀建築の「原典ゼロ」を決めたのはバウハウスだと思っている。そのバウハウスの直前にオランダのデ・スティルがあって、デ・スティルのドゥースブルフ(オランダの画家・建築家、1883~1931年)がバウハウスに教えに行ってるんですよ。それでバウハウスで原典ゼロが決まった。要するに四角い白い箱と大ガラスの組み合わせによる"構成"。
 その原点ゼロが決まるときまで、コルビュジエはデ・スティルとバウハウスの陰に隠れている。
 ただコルビュジエが決定的に優れていたのは「住宅は住むための機械である」っていう刺激的な理論を言ったことです。
(途中略)
世界への発信力ですね。グロビウスはインターナショナルな国際建築って言って、四角い箱と大ガラスをつくる。バウハウスが決めた原点ゼロをそれぞれ伝統文化に向けて、変質化させた人たちがグロビウス以降に現れて、ドイツに向けて変えたのがみーす、フランスおよび地中海に向けたのがコルビュジエ。スペインに向かたのがガウディ。アメリカに向けたのがライト。北欧に向けたのがアアルト。日本に向けたのが丹下健三さん(建築家、1913~2005年)ですよ。
 世界の文化の数だけ方向がある。
(以下略)

コルビュジエの建築史での位置を、こうして説明されると、すっきりした気になります。

藤森さんは、この発言のすぐあとには「コルビュジエが一番好きだったし、今でも好き。」だと言います。つづけて、「私の具体的な設計についていうと、全体のマスの作り方とかにはコルビュジエの影響が強いです。」(途中略)
「だって、設計しててうまくいかないとこがあると、「コルビュジエ呼んでこよう」と思うもん(笑)。「おい、ちょっとここ何とかしれくれ!」って。」

読んでいて楽しくなります。

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本書の肝が"アメ玉説"です。藤森さんが発見した「アメ玉の世界」という視点があります。

人類の建築の歴史から見ると、石器時代と20世紀後半には共通点があるのだそうです。材料から見ると、石器時代には「石・土・木」、20世紀末は「鉄・ガラス・コンクリート」です。建築様式では前者が円形住居とスタンディング・ストーンやスタンディング・ウッドという全世界共通な形態に対して、後者ではバウハウス以降のモダニズム建築が全世界を席捲しているといいます。

言いかえると、人類の建築の歴史は、細長いアメ玉を紙で包んで両端をねじったような形なんだそうです。人類が建築を作った最初の一歩は、どこでも共通で、円形の家に住み、柱を立てて祈っていた。その後の青銅器時代から世界は分かれていきます。ところがその後、青銅器時代 → 大宗教時代 → 大航海時代 → 産業革命時代 と長い時代をへたあと、二十世紀モダニズムによってヨーロッパも固有性を喪(うしな)い、世界は一つになりました。これが藤森さんのいうアメ玉説です。

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ところで、ここでつけ足しておくと、ちょっとおかしいのが、『人類と建築の歴史』という本は、「ちくまプリマー新書」の中の一冊だということです。なぜかといえば、この新書シリーズはプリマー(primer)が「初歩読本、入門書」を意味するとおり、若い人向けの新書です。それだけに、藤森さんも建築の歴史から見た人類史という長いスパンをテーマにできたのでしょう。

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もともと、この本に期待したところは、こうした文化史みたいな歴史上の記述よりも、この記事の冒頭で紹介した、本の雑誌での春日武彦さんのいうところの「アール・ヌーヴォーや未来派、バウハウスなどの相互関係」についてを「判然と」理解したかったからでした。ところで、この「判然(とする)」という言葉はいいですね。こちらのここでの意味に、もっともしっくりくる気がします。

ヨーロッパの芸術の歴史では、その種類(ジャンル)は実にさまざまです。芸術とは、ジャンルでいえば美術だけにとどまりません。本書で扱っている建築(デザイン)があって、さらに音楽や文学も含まれるでしょう。

『人類と建築の歴史』では、マルクスの経済学、アインシュタインの物理学、フロイトの精神分析までも紹介しています。さらにそれらの学問の根底に位置するものとしてグロビウスの数学も数えます。まるでヨーロッパ近代の思想史一覧です。

藤森さん(と宮沢さん)は、そして「建築の変更は、なぜ産業革命より遅れたのか?」という問いを立てます。言いかえれば、「市民革命、産業革命から100年ぐらいだって、初めてアール・ヌーヴォーが出てきた、この大きなずれは何なのか?」です。

藤森さんは、ここでニーチェの「神は死んだ」という有名なフレーズを援用します。いやあ、古い記憶が思い起こされました。「パラダイム的転換」とか「横断的」ってやつですね。昔、柄谷行人が転倒だ! と呼んだり、岸田秀が唯幻論を紹介したときみたい。

P115
藤森:まてよ、と思った。アール・ヌーヴォーの10年くらい前に、ニーチェ(ドイツの哲学者、1844~1900年)が『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、超人が山から下りてきて、「神は死んだ」って人類に伝える。
 「神は死んだ」というニーチェの発言は、思想とか文化には大きな影響を与えていることがよく知られている。だけど、建築に与えたってことは論じられてことがない。私は、あれが最後のとどめを刺したんじゃないかと思うんです。
 それまでは、基本的に建築のパトロンは宗教だった。ヨーロッパ建築史も教会建築、日本建築史だって神社とお寺が中心でしょう。それが「神は死んだ」ってことになると、それまでの建築のパトロンが消えちゃったってこと。
 でも、ニーチェの「神は死んだ」って言葉に衝撃を受けたという建築家は聞いたことがない。
(途中略)
藤森:20世紀建築をつくる大建築家は、そういうことは言わなかった。でも、無意識かもしれないけど、その衝撃はあったと思う。「神は死んだ」としたら、建築家は神に代わる根拠を必要とする、それで空いた神の席に科学・技術を置いたんじゃないかと。それが20世紀の機能主義とか、合理主義とか、鉄とガラスとコンクリートでいこうとか、そういう発想の根拠になっているんじゃないかと。
 建築の根拠が、神から科学・技術に変わったんです。1行だけですけど、RIBAの冊子にそう書いた。そういうふうに見ると、とても見通しが良くなる。

宮沢:今のお話にも関連するかもしれませんが、先生はこの本で「バウハウスがヨーロッパの歴史を否定した鬼っ子だ」という書き方を何度かされていますよね。私は、アール・ヌーヴォーからアール・デコに至り、だんだん幾何学的なものに変わった、つまり、変化は急だったけれどつながっているものなのかなと思っていました。なので、先生が「鬼っ子」だと強調されている意図がちょっとわかりかねて、そこをもう少しうかがえたらと思いました。

藤森:今の「神は死んだ」という話がまさに答えですね。科学・技術を神としていこうってことを、世界に向かって宣言したのがバウハウスだから、バウハウスは歴史とつながってはいない鬼っ子です。

宮沢:それは、アール・ヌーヴォーが起きたころからそういう意識だったっていうことですか。

藤森:そういうことです。アール・ヌーヴォーからバウハウスまで30年ぐらいですから、その短期間に「神は死んだ」問題は、建築としての表現に至るまで無意識のうちに進行したんじゃないかと思います。
 その問題は、今にずーっと続くわけですよ。今の日本人だって、昔のようには信仰を持っていないわけですから、それは必ず表現ににじみ出ると思います。

本の雑誌で春日武彦が「判然としなかったのが氷解! ああそうだったのかと腑に落ちる快感を提供(された)」といっていたのは、このあたりの部分を指しているのではないでしょうか。

さてさて、戻します。「アール・ヌーヴォーや未来派、バウハウスなどの相互関係」を氷解させる方の紹介でも、とりわけそれらに用いられるテクニカルタームの確認からスタートです。

 ◆ ◆

「(ヨーロッパを中心とした)建築の歴史」P109

◎ 初期キリスト教建築(バシリカ式)
 ↓
◎ ロマネスク建築
 ↓
◎ ゴシック建築
 ↓
◎ ルネサンス建築
  ↓
◎ バロック建築
  ↓
歴史主義建築
  ↓
アール・ヌーヴォー

ドイツ表現派
ドイツ工作連盟
イタリア未来派
ロシア構成主義
オランダ デ・スティル
チェコ・キュビズム
アール・デコ
日本 分離派/マヴォ(MAVO)/バラック装飾社

アール・ヌーヴォーを皮切りに、ヨーロッパを中心にアメリカと日本を含め始まった新しいデザインのさまざまな試みは、およそ30年して一つのところへと収束する。1919年新興の美術学校として開校し、1934年ナチスによって閉校されるドイツの"バウハウス"である。

バウハウス
 ① 1919~25 ヴァイマル共和国時代
 ② 1925~32 デッサウ
 ③ 1932~33 ベルリン

画家として:ワリシー・カンディンスキー、パウル・クレー、ヨハネス・イッテン、モホリ・ナギ

【ポイント】
・バウハウスのデザインをヨーロッパとつないで考えてはいけない
・エジプトにはじまりギリシャ、ローマをへてつづいたヨーロッパの建築の歴史を自己否定してしまった
・バウハウスのデザインの背後にヨーロッパの歴史や文化の陰を見つけることはできない
・あるのは幾何学という数学。数学に国籍はない

バウハウスのデザインは、産みの親のヨーロッパにとっても、異質で血のつながりは見つからない、鬼っ子のような存在であった。別名インターナショナル・スタイル、インターナショナル建築、合理主義建築、機能主義建築、モダニズム建築

 ◆ ◆

「アール・ヌーヴォーを皮切りに、ヨーロッパを中心にアメリカと日本を含め始まった新しいデザインのさまざまな試み」が、いちばん気になるところでした。再掲します。

ドイツ表現派
ドイツ工作連盟
イタリア未来派
ロシア構成主義
オランダ デ・スティル
チェコ・キュビズム
アール・デコ
日本 分離派/マヴォ(MAVO)/バラック装飾社

これら「建築・デザイン」の潮流の名称は、美術史で使われる名称(キュビズムとか)と重なるものもあります。「重なる」ついでにいえば、建築デザイン以外のジャンルで使われた例を思い出して、混乱したものでした。演劇や文学(現代詩)などです。

日本に限っても、「バラック装飾社」での「ダダイズム」との重なり具合はどうだったでしょうか。「ダダ」といえば詩人の高橋新吉がいましたし、強烈なドン・ザッキーのステージで拳銃をぶっぱなしたというパフォーマンスが思い浮かびます。「マヴォ」村山知義に限らず、北園克衛の戦前モダニズム詩とか。

 ◆ ◆

本書『画文でわかる モダニズム建築とは何か』と比較しながら、元となった『人類と建築の歴史』も読んでみました。

人類と建築の歴史/ちくまプリマー新書012
藤森照信
筑摩書房
2005年05月10日 初版第1刷発行
2018年08月25日 初版第5刷発行
172頁

該当するところのページ数が、あまりにも少ないことにびっくりです。読むのに、宮沢さんのいう20分や30分もかからないかもしれません。

目次
第1章 最初の住い 9
第2章 神の家―建築の誕生 45
第3章 日本列島の住いの源流 71
第4章 神々のおわすところ 106
第5章 青銅器時代から産業革命まで 133
第6章 二十世紀モダニズム 152
あとがき はじめての建築の本 169

こちらの本文から抜粋した文言が、本書『画文でわかる モダニズム建築とは何か』では、イラストの合間にうまい具合にレイアウトされ、挿入されているのでした。分散されたフレーズも、『人類と建築の歴史』で、ぎゅっと凝縮された文章で読むと、それはそれでまた、頭に入りやすいところがありました。

それにしても、『人類と建築の歴史』全体の分量からいって、ごくわずかにしか該当しない(モダニズム建築)の部分を取り出し、画文集にしたいと思い至った宮沢さんの慧眼と熱量に感謝します。

 ◆ ◆

『人類と建築の歴史』で、おやっと思ったところ

なぜ、日本は植民地化をまぬがれたのか

P149~150
 十八世紀後半にはじまる産業革命が五歩目となる。産業革命によって今日までつづく工業化、産業化、科学技術の時代がはじまり、産業革命の母国となったイギリスは七つの海を支配し、ヨーロッパ列強はイギリスにつづいて農産物、鉱産物の原材料を求め、同時に工業製品の市場(売り先)を求め、アジア、アフリカ、アメリカ、オーストラリアを押さえる。インドも中近東も東南アジアも中国も、ユーラシア大陸の全域が列強の植民地へと転ずる。
 例外的に、日本はあやうく植民地化をまぬがれるが、理由としては、地球を西に回っても東に回っても、ヨーロッパから一番遠隔の地であったという地理的なことが一つ、もう一つは鎖国中の江戸時代に政治も経済も文化も技術も充実をみせ、産業革命前夜に近い状態にまで達していたことがある。欧米列強(アメリカは十八世紀にイギリス植民地から脱して独立し、列強の一つに入っていた)の圧力に対しすみやかに開国し、新たに成立した明治政府が積極的に新しい科学技術と工業力を受け入れ、自らも列強の仲間入りを果たした。

「ヨーロッパから一番遠隔の地であったという地理的なことが」植民地化をまぬがれた理由の一つだとする、その即物的な視点が新鮮でした。あたりまえのことでありますが。