ラブカは静かに弓を持つ 安壇美緒 集英社 2022年05月10日 第1刷発行 300頁 |
明け方の4時過ぎに読了、ほぼ一気読みでした。物語の持つ引力につかまってしまって、「えーい、このまま寝ないで最後まで読んじゃえ!」 と身をゆだねてしまったのは何年ぶりのことだったでしょうか。10代のころには、いつもこんな感覚を味わっていたことを思い出し、懐かしく思ったりもして、今さらそんな自分にもびっくりでした。
内容は現代日本が舞台のスパイ小説です。ただし、危険な目にあうことのない、平凡な市民生活のなかでの出来事なんですが。具体的には著作権協会に勤める主人公が、無届けでの演奏実態を調査するため、街中にある音楽教室に潜入するというお話です。
潜入といっても、生徒としてチェロを習いに音楽教室へかようだけのことなので、当然そこには作者の工夫がいくつか施されています。たとえば、子どものころに8年間も習ったチェロをやめてしまった理由が関係する、主人公の抱えるトラウマとか。ちょこっと恩田陸さん風の感触を感じました。社会人とはいえ、主人公は20代なので、りっぱな青春小説です。現代の「ビルドゥングスロマン」。発表会へ向けての場面はいちばん笑えるところです。
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5月の刊行とはいえ、蟄居の身である自分にとっては久しぶりの新刊小説でした。おそらく週刊誌の書評で紹介されていたのではなかったでしょうか。そうでもないと、新しい小説の情報を得ることはありません。若い作家の小説でもあり、新鮮でした。
作者にとっては、これがまだ3冊目の小説だそうで、しかも初のエンターテインメントなんだとか。楽器演奏の経験もなく、もちろん著作権の知識もないので、時間をかけてリサーチしたのだそうです。プロの作家というのは、イマジネーションでこんな小説が書けてしまうのでしょうか。3回も4回もあたまから書き直したとありましたが。
個人的には、チェロという楽器は昔から興味をもって聴いてきました。年齢の近い親戚のお兄さんが大学のオケで弾いていたので、練習の様子を身近に見ていました。作中にも出てくるバッハの無伴奏チェロ組曲は、当時からずっと好んで聞いています。そんなこんなで親近感を感じながら読みました。
巻末には「主な参考文献」一覧があって、そこにバッハの『無伴奏チェロ組曲』の楽譜が挙げられています。かつて、親戚のお兄さんの部屋に入り浸っていたころは、時間はありあまっていました。あるとき譜面を前に、バッハの『無伴奏チェロ組曲』をレクチャーされました。高校生までの練習とは違う、有名な先生から、ちょうどその曲のレッスンを受けたばかりだったということでした。作者安檀美緒さんはピアノなど、なんらかの譜読みの経験があるのでしょうか。
参考文献にはほかにも、『ヤクザときどきピアノ』の名前があったので、嬉しくなりました。発表会に向けたエピソードが忘れられません。
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最後の場面に向けて進行していくところが、静かに大人の展開なのがよかったです。これはこれで、いいですね。
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【特に記憶に残ったところ】
P.119
小窓の話って言ったっけ? と浅葉に訊かれて、いえ、と橘は横に首を振った。
「初めての発表会を間近に控えてのアドバイス。本番は、ちょっと遠くの小窓の向こうに音を届けるように弾いてみて」
(途中略)
「難しい話になっちゃうけどさ、深海っていうのはあくまでイメージっていうか、曲の世界観のことじゃない? 聴き手がいる演奏では、聴き手にもその世界観を届けてあげられるように、少しだけ他人への意識を残しておかないと」
深海の曲だろうが地獄の曲だろうが、外界への窓をきちんと残しておくのが演奏家ってもんだからさ、と少し照れくさそうに浅葉がまた首を掻く。
この「小窓の話」、前にもどこかで聞いたことがあった気がします。その手の話として、有名なのでしょうか。
P.121
「コンサートで第一音を出す瞬間の脳波って、飛行機のパイロットが離着陸する時と同じ状態なんだって。それはプロのソリストがオケと共演する時の話らしいんだけど、俺らアマチュアにとっちゃ発表会がそれに相当するだろ」
うーん、離着陸とひとくくりにしているところが気になりました。離陸と着陸では雲泥の差があるのですが。パイロットがこういうたとえで、離着陸を一緒には使わないんじゃないかな。どうだろう?
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