[NO.1569] 米澤屋書店

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米澤屋書店
米澤穂信
文藝春秋
2021年11月10日 第1刷発行
377頁
再読

ミステリー作家米澤穂信さんによる......本にまつわるなんでものてんこ盛り、お買い得、......うまい言い回しが思いつきません。こうして迷ったときは......出版社公式HPを検索。ありました。さすが文藝春秋社。リンク、こちら

米澤さんの頭の中を満たしてきたのはどんな本たちなのか。
作家生活20年の節目に、米澤さんの心を捉え、人気ミステリ作家を形作ってきた本を一気見せ。
米澤さんが20年にわたって、様々な媒体に書きためてきた書評やお勧め本、対談を一冊にまとめました。

おそらく、担当編集者が書いているのでしょうか。このまま腰巻きに載っていそうな文言です。もっとも、「本たち」はちょっと抵抗あるかな。「朝顔にお水をあげる」みたいで。こういうのはうるさがられるかな、いまどきは。米澤穂信さんは、こちらの言い回しを目にしていらっしゃるのでしょうか。それこそが、「気になります!」(笑)

このページをスクロールすると、きちんとした「目次」も掲載されています。ありがたや。

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この『米澤屋書店』には、米澤穂信さんのサービス精神があふれています。いったいどれだけ「本」が好きなのか、それがひしひし伝わってきます。ミステリーがお好きなのはもちろんのこと、そのほかのジャンルもわけへだてなく好きなのでしょう。

ぱっと見だけでも、すぐにわかる本好きな読者へのサービス

・装丁がいい。洋書でこんなのがあれば、相当お高いのではないでしょうか。センスが伝わってきます。
・全部のページに脚注が施されています。今どき、こんな手の込んだ面倒をなさる作家はほかにいません。
・巻末には「索引」があります。もちろんのこと、「作品名」と「作家名」の2本立てが、当然のことのように並んでいます。それと丁寧な「初出一覧」が見開きページに。こんな丁寧な本は昭和40年代あたりまでで終わってしまったような気がしました。丁寧というよりも、「読者にたいして親切な」といいなおすべきでしょうか。

ちょっと読んだだけでも、すぐにわかる本好きな読者へのサービス

・「まえがき」と「あとがき」に該当するページの「ご挨拶より本の話をしませんか」と「ご挨拶より本の話をいたしましょう 」には、前書きも後書きも書いてありません。自分の好きなミステリー十作についてのみです。それもみっちりと。ちなみに前書き部分には国内編を、後書き部分には外国編です。とにかく「本の話」です。
・バラエティー豊かな内容。充実した「本の話」。対談はもとより、地元「岐阜県図書館Q&A」から「泡坂先生追悼文」まで。インタビューのために用意した原稿には驚きました。読者サービスのきわみ。

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米澤穂信さん(の書くもの)は誰かに似ていると思っていて、思いついたのが北村薫先生。「日常の謎」ジャンルが似ているだけでなく、お二人ともミステリーの枠におさまらないところがあります。古典文学から外国文学までの幅広いジャンルを読んでいらっしゃるところ。もっとも、米澤穂信さんの卒論はユーゴスラヴィアについてだそうで、北村先生とは被らなそう。

P.259
卒業論文では、ユーゴスラヴィアのことを書いた。

P.260
 そして私は大学を出て、『さよなら妖精』を書くことを決意した。
 サラエボとコソボの区別くらいはつくようになっていた。けれどもまだ、民族紛争の憎しみの本質をつかみきれた気はしなかった。
 仕方がないので、各民族の間に生まれた連邦主義者を主人公にして書いた。笠井潔先生に、多文化主義的な連邦主義は時代遅れ、という趣旨の的を得たご批判を頂いたが、自分自身それはわかっていた。ただ、私にはそうとしか書けなかったのだ。

ここににじむ若い感情は、円紫さんシリーズからはるかに隔たっています。けれども、この書き下ろしだという文章(ネヴィル・シュートの『パイド・パイパー』について)の最後に紹介している「静かな本」はどうでしょう。

P.260
 でも一昨年、ようやく、求めていた静かな本にめぐり会うことができた。
 それが、ネビル・シュートの『パイド・パイパー』である。

なぜかわかりませんが、池澤夏樹さん翻訳の集英社文庫版『Dr.ヘリオットのおかしな体験』(ジェイムズ・ヘリオット著)を思い浮かべてしまいました。

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【プロとして、職業としての「書くこと」】
「好きなことを好きなように好きなだけ書く」

P.8
 ありがたいことに、私はこれまで、さまざまな条件に基づいて本を選ぶ機会に恵まれてきました。条件とはたとえば、現在流通しているものの中から選ぶとか、初読者向けに選ぶとか、私が小説の書き方を教わった本を選ぶ、などといったことです。しかし一方で、いっさいの条件を課さず、文字数も気にせずに、ただ好きな本を語るということはしてきませんでした。けだし当然と言えましょう。好きなことを好きなように好きなだけ書くというのは、ほとんど仕事とは思えませんので。

納得するしかありません。「商品」としての文章とは、そういうものでしょう。

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【映画『ブレックファスト・クラブ』の不思議ちゃん】

「みんな私のカバンの中を見て、ねえ見たいでしょう? 」これを米澤穂信さんは「痛々しさ」と呼ぶ。表現する者の気持ちを意識化すると、こうなるのかな。こんなこと、考えもしない表現者もいるのだろうなあ。

P.216
実を言えばお話も細かいところまで憶えているわけではありません。それでもこの映画をいちばんに挙げるのは、たったひとつ、どうしても忘れられない場面があるからです ── 五人のティーンの一人、いわゆる「ゴス」、つまり「不思議ちゃん」枠とでもいうような女の子が、突然カバンを開ける場面です。わたしを見て、わたしのカバンの中身を見せてあげる、みんなも興味があるでしょう? と言わんばかりに、彼女は突然カバンを開ける。これが、衝撃的だった。こわばって解きほぐすことも出来なくなったような自意識がカバンを開けるというつまらない行為で爆発する滑稽さ、わたしの一大事はあなたの一大事であると信じて疑わない痛々しさに、思わず目を背けました。
 ......でも、その滑稽さや痛々しさを、映画の中の彼らは誰も笑いません。なぜなら、たぶん彼らも心のどこかに、カバンを開けて「ねえ、見たいでしょう?」と言いたくなる衝動を抱えているからなのです。
 それ以来私はどこかで、自分はカバンを開けているだろうか、と考え続けているような気がします。胸のうちを切り売りするような毎日の中で、みんな私のカバンの中を見て、ねえ見たいでしょう? と思ってしまってはいないか。あるいは、いまこそカバンを開けるべきという時に、その行為の持つ本質的ないたましさに怯んでしまってはいないか。好きな映画を繰り返し見ることはままありますが、私は「ブレックファスト・クラブ」を、実は一度しか見ていません。もういちど見ることが、こわいような気がしてならないのです。あのいたたましさをもう一度見ることがおそろしい......そしてそれ以上に、いまの私がそれを感じ取れなくなっているかもしれないと思うと、ためらってしまうのです。
 そう考えると、私にとって映画とは、やはりかなしくておそろしいものなのかなと思わなくもありません。

(この映画を)実は一度しか見ていません(途中略)もう一度見ることがおそろしい というのですから、もはやオリジナルの映画ではない。何年もずっと抱えてきた記憶のなかの「ブレックファスト・クラブ」です。きっと、米澤穂信's アリソン・レイノルズ がカバンを開けてたんですよ

【フラットキャラクター=「不思議ちゃん」枠】

P.216
脚注
「不思議ちゃん」枠
言うまでもないことですが、「不思議ちゃん」枠などという人間は存在しません。人を役まわりで把握することは、大雑把な理解や伝達には(特に紙幅がない時などは)役立ちますが、乱用は用意に偏見を招きます。「大人になると心が死ぬの」と呟いた彼女を単に「『不思議ちゃん』枠」「ゴス」「アリー・シーディが演じた誰か」と呼んでは、何かがこぼれます。人を役まわりではなくその人として扱う第一歩は常に、名前を知ることでしょう。ということで、書いておきます。彼女の名前はアリソン・レイノルズです。

小林信彦さんが書いていた「フラットキャラクター」を思い出します。

年寄りは、つい、うがった見方をしてしまいます。一度しか見ていないという映画で、登場人物の台詞をここまで憶えているというのもすごいです。

「大人になると心が死ぬの」と呟いた彼女

それだけ感情移入が強かったということでしょうか。

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【心がけていることは、間違った日本語を書かないこと】

P.250
Q 心がけていること
A 当然ではありますが、間違った日本語を書かないことは第一に気をつけます。微分ではなく、簡にして要を得た文章を書きたいと思っていますが、それは小説全体を簡単な文章で書きたいからではなく、むしろ一冊中にせいぜい一、二ヶ所しかない、ほとばしるような一文のための準備というように感じています。
(岐阜県図書館Q&A)から

これを読んだときに、すごく嬉しくなりました。

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本書でいちばん記憶に残ったのが、この文章でした。

P.257~
ネヴィル・シュートの
『パイド・パイパー』について