[NO.1556] かれが最後に書いた本

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かれが最後に書いた本
津野海太郎
新潮社
2022年03月25日 発行
282頁

ボーッとしていたら、前回の読書記録を投稿してから1年以上が経過してしまいました。その間、本は読んでいましたが、記録として残すようなことはしていなかったので、これが1年ぶり(以上)の投稿記事です。いちおう読んだ書目はその都度つけています。もちろん全部の書名をあげているわけではありませんが。そのときどきに読んだ書名を「今回の課題図書」として、別サイトのブログで記録しています。

今回の課題図書(こんなのを読んだ)→ 別サイトリンク ひまつぶし 

「メインナビゲーション」の「リンク」内と同じです。こちらも最近の内容しかUPしていません。古い日付のものも、別サイトから引っ越せばいいのでしょうね。すっかりずぼらななまけぐせが身についてしまいました。

 ◆  ◆

表紙カバーデザインは南伸坊さん。(田中)コミさんみたい。ギョロッとした「往年の目力」(P54)が強そう。

津野海太郎さんの本にまつわるエッセイ集。書評とか本についての文章では、津野さんの書くものがここ数年でいちばん好きです。その前に追いかけていた小林信彦さんが体調を崩してしまったのが残念。

この前に出版されたのが『最後の読書』2018年だったから、津野さんのこの手の本としては4年ぶりになる。今回はタイトルにあるとおり、特に著者のまわりで亡くなった友人についての回想が中心になっていて、昔の話がてんこ盛り。実際に書かれた時期は下記「初出」参照のとおり2018年から2021年。

初出
1~15章は新潮社のサイトにある Web考える人 二〇一八年十二月から二〇二一年二月
 うち第26回「高級な読者と低級な読者、第28回「勉強読書のすすめ」、最終回「わが人生の映画ベスト10 その三」を割愛し、全体に加筆しました。
16章 いっしょに消えてゆく
「友だちは大切にしなければ」(『暮らしの手帳』二〇二一年 summer 八―九月号)「小沢さんの三冊の本」(『朝日新聞』二〇二一年五月十五日朝刊の「ひもとく」)
17章 平野甲賀の青春
「平野甲賀の青春」(『芸術新潮』二〇二一年八月号)

80歳を過ぎた著者にとって「親しい人、遠くにいて頼りにしていた人たちが、どんどん消えていったこと」が「こたえた」と書いている。

本書第1章が樹木希林さん。巻末が小沢信夫、平野甲賀さんで閉じている。その間に、坪内祐三、柏木博、加藤典洋、池内紀、阿奈井文彦、古井由吉、橋本治、和田誠が入る。そうそうたる山脈だよ。

それぞれの章末には、文中に出てきた本についてのきちんとした書誌が掲載されている。ここがポイントなんですよ、雑誌やネットにあふれる読書にまつわる記事は、この手間を惜しまないでほしい。

1、樹木希林と私 (p)7
津野さんはすっかり本や出版の人だと思っていると、こうして演劇畑だったころの顔に驚かされる。巻末の略歴にもしっかりある。「早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、......」 この時代の演劇関連の人脈は綺羅星のよう。

おそらくここで書きたかったのは岸田森(しん)さんのことだったのではないかな。もちろん悠木千帆・樹木希林のことがいちばんだろうけれど、それだけじゃないでしょう。希林さんが亡くなって、メディアにあふれた回想のことばについて、「残念なこと」として岸田森さんをとりあげている。

P13
ちょっと残念なことがひとつ。彼女の型破りな夫だった内田裕也氏にくらべて、その最初の結婚相手である岸田森について、あまりにも薄くしか語られていないこと。

ああ、やっぱりなと思った。こちらも同じことを感じていたので。津野さんはつづけて岸田森さんの有名な親族を一人ずつ紹介している。いまとなっては、そうでもしなければ、(岸田森さんのことを)わかってもらえないことがもどかしいかのように。

おやっと思ったことに、『アデン アラビア』について、つぎのようなエピソードがあった。

ポール・ニザン『アデン アラビア』の冒頭を希林さんが、さらりと暗唱したというのですよ。「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」という、あれです。気障なフレーズだな。樹村みのりの漫画にまで出てきたのを覚えています。そういや、ランボーが断筆したときのセリフなんてのもあったなあ。NHKで先日放送していた立花隆さんの番組名になっていて、あれま! でしたよ。NHKスペシャル「見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅」(2022年4月30日放送 )

話を戻すと、ポール・ニザンの言葉は『婦人公論』(2018年10月23日号)対談記事のなかにあったのだそうです。どうして希林さんの口から、それが出てきたかというと......

この本『アデン アラビア』を希林さんに手渡したのが、ほかならぬ「カイ」ちゃんこと、津野海太郎さんだったのだそうです。なぜなら、この本を編集したのが津野さんだった。晶文社の敏腕編集者でしたものね。

次から次へと繰り出されるエピソードと人名を追うだけでも引き込まれる。60年代からすでに樹木希林さんは住宅不動産マニアだったとか、可笑しい。

2 不良少年の目つき
3「どうしようもなさ」の哲学

2章と3章は、鶴見俊輔さんのこと。それにしても第2章のタイトルはすごいなあ。「不良少年の目つき」ですよ。若いころ、あまりにも素行が悪くて手が付けられなかった。何度も退学を繰り返したので入る学校がなくなり、最後は父親にアメリカへ留学させられたのだという。

(団塊のかたから)遅れてきた世代にとって、鶴見俊輔さんといえば、ベ平連の報道などで目にした風貌が思い浮かびます。本書で津野さんが書く「「ワハは」と呵々大笑いしてやまない快活な老人」のイメージですね。それと本でいえば、大部のシリーズ『転向』の人だったな。平凡社から出ていた『共同研究 転向 上中下巻 思想の科学編』というやつ。古本屋の棚にまるで大百科事典みたいにズラッと並んでいる様には圧倒されましたよ。値段も高かった。(その後、東洋文庫から6巻で出ていたのですね。これなら寝転んでも持てそう。百科事典では重くて持てなそうにない。)

ネット検索が一般的になった20年くらい前、たまたま知ったことで、若いころのエピソードがあった。太平洋戦争が始まってから、交換船で帰国したという話。それまでハーバードの学生だったとも。戦後は丸山眞男や都留重人らと一緒に思想の科学研究会を結成したというのも出ていた。へーえ、まあ、すごい経歴だなとと思ったのではなかったかな。

それが今回知ったのは、もっと激しい内容だったので驚いた。

黒川創さんが聞き手のロングインタビュー『鶴見俊輔みずからを語る』(テレビマンユニオンから2010年発売)というDVDがあるという。もともとはテレビで放映されたのだそうで、まったく知らなかった。2018年には同じく黒川創著『鶴見俊輔伝』(新潮社)が発売された。ここでは『鶴見俊輔伝』を中心に鶴見さんの話が続きます。

P31
子どものころから黒川さんは父(北沢恒彦)の親しい友人だった鶴見さんのかたわらに身をおき、鶴見さんの家族とともに死にいたる過程につきそった

のが、黒川創さんなのだという。そりゃあ、DVDも本も、中身は推して知るべしだろう。

ところで、不良少年時代のエピソードはというと、これがなかなかのもの。父親が衆・参議員の家に生まれた。母方の祖父は満鉄総裁や外務大臣を務めた伯爵後藤新平。それなのに旧制中学校中退の身で、女給や水商売の女性と大人の関係をもつ。久我山にみつけた物置小屋をこっそり小遣いで借り受け、ひとり暮らしを始めるなどなど。前後して二度の自殺未遂と三度の精神病院への入退院を繰り返した。そのときの年齢が14歳。仕方なく父親は15歳になった息子をアメリカに送り出す決意をしたのだという。

ところが、留学後の生活は一変するのです。英語もできずに渡米した不良少年が、17歳でハーバード大学哲学科に飛び級で入学を果たす。学生時代はずっと「一番病」の優等生だったという。その後、太平洋戦争が始まったためにFBIから逮捕されてしまったけれど、成績が優秀だったことで教授会から繰り上げ卒業を認定されたのだとも。ふり幅の大きい極端な人生。

日米交換船で帰国してからの辛い戦争体験と戦後のベ平連などの活動。そのおおもとになったのが、ハーバード時代に経験した3章タイトル「どうしようもなさ」の哲学 だったのではないかと津野さんはいいます。当時、プラグラティズムが全盛だったハーバードの哲学では満たされない思いからはじまって、亡くなるまでの心情を丁寧に読み解いています。真摯。

ここでとり上げられていた2つの事例がインパクトありました。一つ目は、戦中、軍属として送り込まれたジャカルタで経験した出来事。2つ目は「ベ平連」の活動で、ベトナム戦争からの脱走アメリカ兵をソ連経由で北欧に逃がす途中で失敗してしまったという事件。

話はかわって、いきなり出てきた「もうろく帖」のこと。びっくり。津野さんが『最後の読書』のなかで紹介していました。鶴見さんが晩年に20年間にわたってつけていたというノートのこと。あの「もうろく帖」を家族出版したのが黒川創さんたち。このつながり! 

4 往年の目力(読書日記)

(1)荒木経惟さんが撮影して、月刊誌『ダ・ヴィンチ』に津野さんが掲載されたという話。
(2)福島紀幸『ぼくの伯父さん 長谷川四郎物語』について
津野さんが新卒で受けた『新日本文学』の面接官に長谷川四郎さんがいたのだという。入社試験の結果は、「いちどは落ちたのに、なぜか一週間後に採用の手紙がとどいた」のだそうです。でも、そんな御縁がありましたという紹介だけで終わらない。この採用時、「最初に受かったのが」福島紀幸さんだった。それからも晶文社に移った津野さんが長谷川四郎全集を編集するときに福島さんにお世話になって......。

(3)橋本治について
橋本治さんは仙人タイプだったという。

P58
 頭はずば抜けていい。でも威張らない。というよりも、もともと威張る記などには縁がないのだろう。人目も気にしないから、男なのに平気で編み物の入門書を書いたりする。さらさらと原稿を書き上げ、だぶん推敲もほとんどせず、なのにそれがだれにもマネのできない「銘文」になっている。そんな力は私にはないのえ、ちょっとくやしい。

この引用した文章、以前にも入力した記憶があるのですが。どこだっただろう? いいほめ言葉です。

P59
文芸各誌、橋本治追悼文の中で、

『すばる』での内田樹の文章だけが、世代限定ではない橋本治の力をズバリと指摘していて、つよく印象にのこった。

のだそうです。内田樹さん以外は、違ったということですよ。高橋源一郎、関川夏央、船曳建夫。

『大江戸歌舞伎はこんなもの』
『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』
『青春つーのはなに?』
『国家を考えてみよう』
『橋本治という考え方』

P60
橋本さんがその全作家活動を通じて実行したのは説得でもないし、教化や啓蒙でもない。ひたすら説明であったと思う。

P63
「説明衝動」と並ぶのが「勉強衝動。その対をなす働きこそが橋本さんの「物を知らない人間に対するやさしさ」を支えていたのではないか―。

そしてその最初のあらわれが『桃尻語訳 枕草子』三巻だったのではないかという。「マスコミなどでは、どちらかといえば受け狙いのゲテモノ視されていた」と、ちょっと津野さん、悔しそうに書いている。「その後、古典の現代語訳や潤色や絵本化は途切れることなくつづけられた。」

『双調 平家物語』
『絵本 徒然草』
『窯変 源氏物語』
『仮名手本忠臣蔵』
『義経千本桜』
『菅原伝授手習鑑』
『妹背山婦女庭訓』

これら勉強の副産物として生まれたのが
『これで古典がよくわかる』
『大江戸歌舞伎はこんなもの』
『浄瑠璃を読もう』
『古典を読んでみましょう』
『百人一首がよくわかる』
などの解説本だった。

結論
学校教育では形骸化された「勉強」と「説明」って、こんなによころばしいものだよ!

5 黒い海の夢
多田富雄『寡黙なる巨人』

6 ひとりでは生きられない
小林信彦『週刊文春』「本音を申せば」 『生還』 脳梗塞
野坂昭如の脳梗塞例
遺伝学者柳澤桂子の場合 低骨髄液圧縮症候群 ノートパソコン

7 映画少年のなれの果て
落合博満「戦士は何を食べて来たか」
映画少年という言葉

8 黄色いアロハの夏がきた(読書日記)
9 もし目が見えなくなったら

10 かれが最後に書いた本
(1)P144 池内紀『ヒトラーの時代』中公新書 2,019年刊
痛々しい話。慣れないネット初出の文章を、手をかける時間もとれないなかで出版したことによる弊害といいますが、『かれが最後に書いた本』じたいも Web考える人 連載が初出だったのでは?

(2)P154 加藤典洋『大きな字で書くこと』岩波書店 2019年11月
加藤さんの父親が特高警察だった話。

(3)P161 古井由吉『この道』講談社 019年1月
「つまり古井さんは私よりわずか一歳上の、まごうかたなき、わが同世代人なのです。」

11 落ち着かない日々(日記ふうに)
12 新型コロナ下でカミュを読む

13 「今度は熱中症かよ」の夏(読書日記
『都筑道夫読(ドク)ホリデイ』早川書房 1989年から2002年にかけて、『ミステリマガジン』に連載した書評エッセイ(連載時のタイトルは「読ホリデイ」)

P212
六〇年代から七〇年代にかけて、若い私はかれらの影響下で、ミステリーや映画やジャズなどの、アメリカの新しい大衆文化の魅力にめざめた。その恩義をいまもまだ忘れられずにいるのです。私や私の世代だけでなく、私たちより十歳ほど若い団塊世代、さらにそのつぎの連中あたりまでは、たぶん、おなじような感じできたのではないだろうか。

上記でいう「かれら」とはだれか?

P212
 編集者としての私についていうと、小林信彦さんとくらべると、都築さんとのつきあいは浅かったと思う。でも、永六輔、野坂昭如、福島正美、筒井康隆、小松左京といった方々とくらべれば、いくぶんかは深かった。(以下略)

「さらにそのつぎの連中あたり」にまぜてもらえそうでしょうか。

P213
 その都築さんによる日録ふうの書評が『読ホリデイ』(説明がおくれたが、ジョン・フォード監督『荒野の決闘』でヴィクター・マチュアが演じた西部のガンマン、ドク・ホリデイのもじり)で、(以下略)

驚きました。ドク・ホリデイもじりの説明を、こんな丁寧にしていることに。

P214
一九七八年から八七年にかけての十年間、私は高橋悠治、八巻美恵、鎌田慧、平野甲賀、柳生弦一郎、柳生まち子、藤本和子、田川率といった人たちと『水牛通信』という月刊のミニコミ誌を出していた。

突然『水牛通信』という名前が出てきて驚いた。先日、四釜裕子さんのブログ bookbar5 にこの名前が出てきて、検索すると、ホームページのなかに 「水牛通信」電子化計画はこちら なるリンクがあった。「電子化計画」なる文言がなつかしかった。その昔、○○電子化計画というサイト名がたくさんあった。

P219
 そしてもうひとつ、『紅茶を受け皿で』というオーウェル論をあとに残して去った小野二郎が、いま生きていたら九十一歳。その小野翁に、ぜひともブレイディさんの近作『ワイルドサイドをほっつき歩け』を読ませたかった。

14 わが人生の映画ベスト10 その一
15 わが人生の映画ベスト10 その二
・映画については省略
・名画座について

『灰とダイヤモンド』『勝手にしやがれ』を推しているのは?

1 M/1931
2 天井桟敷の人々/1945
3 第三の男/1949
4 雨に唄えば/1952
5 波止場/1954
6 突然炎のごとく/1961
7 屋根の上のバイオリン弾き/1971
8 蜂の旅人/1986
9 非情城市/1989
10 わたしは、ダニエル・ブレイク/2016

8、9、10のような新しい作品を入れているところがすごい。

16 いっしょに消えてゆく

友だちは大切にしなければ

P256
この三月三日(二〇二一年)、九十三歳でなくなった小沢信男さんが、二〇一六年にでた『俳句世がたり』という岩波新書で、私の旧著『百歳までの読書』から、こんな一節を引いてくださった。
「人はひとりで死ぬのではない。おなじ時代をいっしょに生きた友だちとともに、ひとかたまりになって、順々にサッサと消えてゆくのだ。現に私たちもそうだし、みなさんもかならずそうなる。友だちは大切にしなければ」

「ひとかたまりになって、順々にサッサと消えてゆく」というリアル。

小澤さんの三冊の本

代表作
『裸の大将一代記』『東京骨灰紀行』『俳句世がたり』

P260
 たとえば俳号「変哲」こと小沢昭一の「危うくも吾れ祭られず招魂祭」の句。招魂祭とは靖国神社の例大祭のこと。戦争末期、海軍兵学校予科生徒となり、死と生の分かれ目に立たされた「小沢昭一クン」が、「敗戦のおかげで命は拾ったが危うかったなぁ」と小声でつぶやくのが聞こえる......。

小沢昭一さんの演じる「ハーモニカが欲しかったんだよぉ」を生で聞いたのが、今となっては宝物だ。母校麻布の朝礼台の上で真っ白な予科練の制服に身を包み、颯爽と「自分に続け!」と後輩に呼び掛けたという「昭一クン」。ぞの姿をいまでも覚えていると書いていたのは、だれだったっけ? こういう証文の書き残されてしまっては怖いなあ。慚愧の念で堪え難きを絶え。

17 平野甲賀の青春
 「ポスターの時代」の意味を丁寧に説明してくれている。以前、どこかで、こうした説明を読んだことがあった気がするけれど、ここで津野さんの説明を読んで、腑に落ちたみたいです。

P265
六〇年代中葉のグラフィック・デザイナーの仕事の中心は、商業デザインという大枠の内側で、ポスターや新聞・雑誌・車内吊りの広告、パンフレット。包装紙、ビラやチラシをつくることだったからね。なかでも晴れの舞台と目されていたのがB全(1030×728ミリ)やB倍(1456×1030ミリ)サイズの大型ポスターで、この華麗なる「ポスターの時代」を代表するのが、ほかでもない、あの亀倉勇作の四枚の東京オリンピック・ポスターだった。といったしだいで、この時期に多摩美術大学図案科をでた和田誠が、後年、こんなふうにしるすことになる。

 ぼくは「ポスターを描く人」になりたくて美術学校に進んだ。まだ、グラフィック・デザイナーとかイラストレーターという言葉を知らない時代である。(『知らない町角』)

和田誠に並び、平野甲賀も若くしてポスターで賞をとっている。武蔵野美術大学在学中に大江健三郎『見る前に跳べ』のポスターで日宣美(日本宣伝美術会)展の特選になった。卒業後は若手デザイナーの憧れの職場だった高島屋宣伝部に入社した。それが一転、ブックデザイナーに。

引っ張りこんだのは、ほかでもない、津野海太郎さんだ。

P265
 私が晶文社に籍をおいたのは、その一九六四年から九八年までの三十四年間。もしも「そこでのあなたの最大の功績は?」と問われたら、「平野甲賀を晶文社のしごとに引き入れたこと」と、ためらうことなく答えるにちがいない。

こんな誉め言葉をほかに知らない。こそばゆくなってしまいそう。もっとも、小林信彦さんもまた、こんな言葉を残している。

P268
 かれの没後、小林信彦が『週刊文春』のコラム「本音を申せば」で、一九七二年刊の『日本人の喜劇人』以来、私(=小林さん)の本の装丁を担当しつづけてくれた「平野さんの文字はなんというか、独特の、(手工芸的と私は思う)形容しようもないもので、私が五十年弱も頑張ってこられたのはこのおかげもあると固く信じている」としるしていた。

P269 コウガグロテスク

P270 『平野甲賀[装丁]術 好きな本のかたち』1986年 この本は持っていたぞ

P272 60年代 ポール・ニザン『アデン アラビア』『ヴァルター・ベンヤミン著作集』
   70年代 植草甚一『ワンダー植草・甚一ランド』小林信彦『日本の喜劇人』
   80年代 講談社出版文化賞受賞 木下順二『本郷』沢木耕太郎『深夜特急』
   90年代 椎名誠『武装島田倉庫』

P277 1997年空2005年 雑誌『季刊・本とコンピュータ』平野といっしょにやった最後の仕事ということになった。

好きでしたよ、『季刊・本とコンピュータ』という雑誌。何冊か持っていたはずです。まだ、画像処理がさほど速く処理できなくて、テキスト文書だったら......という初期の時代。面白かったな。