[NO.1548] 文庫本千秋楽

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文庫本千秋楽
坪内祐三
本の雑誌社
2020年11月25日 初版第1刷発行
539頁

文体を手に入れたときに、ひとは......といわれる。本書のこれでもか、といえるほどの分厚い束(つか)を手にし(寝転がって持つには手首が痛い)読んでいると、そのどこからもツボちゃんの声が聞こえてくる。どこまでも、いつまでもこの時間がなくなって欲しくない。毎晩、寝る前にちょぼちょぼ読んでいたのだが、ときどき目次から、ぱっと目についたページにワープすると、そこでまた読みながら胸が熱くなる。こんな短い文章なのに、中身が濃い。

P350
辻邦生/北杜夫 『完全版 若き日と文学と』中公文庫

辻邦生と北杜夫、坪内さんがこんな本を読んでいたとは意外だった。以前に出版された古い版が愛読書だったという。それがこの完全版では倍近いページに増えているのを指摘。何度も読んだので、かつての古い版は、手ざわりさえも憶えているとある。自分でも似たような記憶を何日か前に思い出していたので、おやっと思った。中学生のころ、北杜夫のソフトカバーの本を乏しい小遣いから購入し、何度も読み返した。今はないその本の色や表紙の折り返しなどを、偶然思い出していた。本は、中身だけが大切なのではない。その出会いと手ざわりは記憶のどこかにしまわれていて、とんでもないときにふと思い出すことがある。

旧制松高時代から続く、お二人の交友はうらやましかった。寮でのストーム、自己への沈潜、懐かしい。

で、ツボちゃんの文章は、その最後に、巻末に収められてある辻夫人のエッセイ「辻邦生と北杜夫」(夫君の一周忌に書かれたという)について紹介して終わる。

P351
 晩年の二人は健康状態がよくなく、以前のように頻繁に会うことが出来なくなっていた。しかし、「パーティーの会場などで出会うと、嬉しそうにただ黙って並んで座っていた」。感動的な光景だ。(19.09.05)

ツボちゃんは、だれと黙って座りたかったのだろう。

いつまでも、いると思うな......という言い回しがある。自選全集ではなく、編者がきちっと編んだ定本の全集が出るには、その作家の死後、しばらく待たなければならない。昭和の、文学が今よりも幸せだったころの話だ。どの作家の全集が、いつ出版されるのか。待ち望んでいたものだった。出版業界は威勢がよくて、新しく全集がでるとなると、なんとも豪華なリーフレットが用意された。それが、ツボちゃんが亡くなってから、こうしてぽつぽつと出版される本を手にして、そのころとはまるで違った気持ちになっている。

 ◆  ◆

この本の編集が、また泣かせる。折に触れ、ツボちゃんがまだ生きていたらどうだったろう、と思わせられるものをねらって選んでいるような気がしてならない。何本に1本かは、必ずといっていいほど、そんな文章が出てくるので胸が詰まる。

 ◆  ◆

頭からとおして読んでみて気がついたことに、文末の一文があった。最後にシメる、決めの一文。本書に収められた全部がとはないまでも、かなりの確立で最後の一文に力のこもった決めの文でシメている気がする。そういえば、前にも同じような感想をもったことがあった。どの本だったっけ。

 ◆  ◆

それにしても、この本に詰まった諸々の知識は膨大だ。紙でなく、デジタルで検索できたら便利なのに、とつい思ってしまう。「活字」でないのは駄目とツボちゃんは言うだろうな。

岡田睦 『明日なき身』講談社文芸文庫

P118
省略してセイホと呼ぶという、生活保護を受けながらの生活。電気も止められ、暖をとるために洟をかんだティッシュをダンボール箱に入れて火をつけたら火事になったというエピソード。その後の展開がすごいのだ。ツボちゃんは、このことを別のところでも紹介していた。

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初出 文庫本を狙え!「週刊文春」2016年4月7日号~2020年1月23日号
年間文庫番「本の雑誌増刊 おすすめ文庫王国」1999~2020

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【おやっと思ったことのだらだらした羅列】

P69
中野三敏『写楽』中公文庫

力を込めて推している。解説手前に収録された木田元のエッセイ「快刀乱麻を断つ」を立ち読みすれば、レジに向かうこと必至なのだそうだ。ところがそれとは別に、ここで目を引くのは、"謎の浮世絵師"写楽の正体について。

これまで多くの人が、その正体について謎解きをしていることは知っていた。自分でもその手の本を何冊か読んだことがあったし、TV番組でも特集で池田満寿夫さんが出ていたのを見たことがある。ところがツボちゃんは、既にその正体は斎藤月岑(げっしん)が『増補・浮世絵類考』(1844年)で明かしていたのだという。(写楽の正体は)俗称斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住む。阿波侯の能役者。ドイツ人ユリウス・クルトの『写楽』(1910年)に、そう書いてある。

戦前までは、写楽=斎藤十郎兵衛で、とおっていた。ところが、それを書いたクルトは「江戸歌舞伎に詳しくないからその部分の間違いがあった」ため、「その後のブームによって否定され」てしまい、「幾つもの説が生まれ」ることになったのだという。そんな流れがあることは、ちっとも知らなんだ。これまで数多くあった異説は、いったい何だったんだ。

P74
講談社文芸文庫編『個人全集月報集 武田百合子全作品 森茉莉全集』講談社文芸文庫

森茉莉の「その伝説的な部屋」について。なるほど、ここまでだったとは。アパートの部屋には米軍放出の無骨なベッドが置いてあったということくらいしか知らなかった。それが足の踏み場もないほどに乱雑だったとは。このごろTV番組で取り上げられている、捨てられない人だったのですね。「部屋の隅にころがっている割れた一升ビン」などと、容赦なく紹介してしまう富岡多恵子。うーむ。「その部屋に入ることを許された人は、「五本の指に数えられるほど少なかった」」。ほかには、夫だった山田珠樹と中野翠が入ったとある。おお、黒柳徹子さんも入ったことがある。パーティー会場から、徹子さんが車で茉莉さんの部屋まで送った。すると「3分だけ」お寄りにならない? と森茉莉が言った。3分だけが3時間になったという。

P75
この文庫本で初めて出会った掘り出し物と言えるのが黒柳徹子の「三分だけ!」だ。

ところで、徹子さんのエピソードって、ネットには「徹子さんがインスタ(動画)で話した内容」にあった。文字起こしまでされていて、読むこともできる。2020年5月、緊急事態宣言のときに公開したようだ。それによれば、2分が4時間になったとある。電気をつけたらゴキブリが逃げたとかも、可笑しい。空っぽの冷蔵庫に、1本だけ入っていたコーラを分け合ったという話もいいなあ。

P113
小沢信男『ぼくの東京全集』ちくま文庫

文庫オリジナルだという。帯の言葉「一人の作家が書き続けた65年分の東京文集」。つぼチャンはこう書いている。

P65
「65年分」だぞ。「65年分」

「長生きも芸のうち」というが、ここでこれを目にすると、痛い。2017年3月23日掲載。このときツボちゃん58歳、小沢さんは90歳。

P134
中島義道『東大助手物語』新潮文庫

文末の一文。「唾棄すべき世界だ。」

P165
吉田健一『父のこと』中公文庫

文庫紹介の枕で振っているのが、(直接名前は書いていないが)サンデー毎日に不定期連載していた「我が愛しき旧制一高」のこと。つぼちゃんが司会をしていたこの記事は、書籍化の予定がないのだろうか。ゴシップになるが、高校受験で2校失敗し、一浪した大学受験でも志望校に入れなかったという。もしかすると、年輩の教養人の懐へ入るのが上手だったのだろうか。

P212
ヨハン・ホイジンガ/里見元一郎訳『ホモ・ルーデンス』講談社学術文庫

ホイジンガの『あしたの蔭の中で』にも触れながら、「ピュエリリズム」について取り上げている。

P213
「ピュエリリズム」それは、「簡単に飽きるが、決して満たされることのない陳腐な気ばらしを求める欲望、下品な感覚的興奮、大衆的見世物好みなどだ」。
 まさに現代の日本そのものだ。「ピュエリリズム」の「一連の特性は、ユーモアに対する過剰の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ以外の人に対する極端な嫌疑と不寛容、賞賛につけ非難につけ見境なく誇張すること」だ。

巧いのは、冒頭で西部邁の遺著『保守の遺言』(平凡社新書)にあったというスマホ(ゲーム)についてのエピソードを紹介しておいて、それから上記の「ピュエリリズム」の説明につなげていくところ。『保守の遺言』でのエピソードとは、今はタクシーを利用している西部さんは、あるときから電車を使わなくなった理由が、(車中で)スマホ(ゲーム)に熱中している人々を目にしたくないからなのだという。本では、その話からつづけて『ホモ・ルーデンス』に言及しているとも。もっていきかたが巧いなあ。

ことはスマホだけにとどまらない。坪内さんはほかでもなんども書いていた。ネット上で繰り広げられる文字は信用できない。雑誌であれ、書籍であれ、活字のもつ力を訴え続けていた。

P219
山田太一『夕暮れの時間に』河出文庫

この本で一番共感を覚えたところとして、「適応不全の大人から」以下を引用していた。

P220
私はこのごろのテクノロジーの変化が病的に早く思えてならない。静かにその時々の変化や成果を味わう暇もなく、どしどし神経症のように新発明ツールが次々現れては現在を否定する。その結果の新製品、新ツールも病的に細かい変化で、なくてもやっていけるものばかりどころか、ない方がよかったのではないかと、少し長い目で見ると人間をこわしてしまうような細部の発明を目先だけのことで流通させてしまう

PC雑誌で次々に紹介される新機能。クロック数。

P223
T・S・エリオット/深瀬基寛訳『荒地/文化の定義のための覚書』中公文庫

冒頭で、影響を受けている人物のつながりを説明する。坪内さん←福田恆存←T・S・エリオット。それから、T・S・エリオットの評論をふまえて書いたというスタイナー『青髭の城にて』(桂田重利訳みすず書房)の紹介が登場する。『青髭の城にて』の原題は『文化の再定義への覚書』とのこと。現代を知らされないと、わからない。坪内さんの修論はスタイナー。

P225
 スタイナーはさらに、教育が整備普及されても、それによって社会の安定度や政治の合理性が増すことはないだろうと述べている。
 半世紀近く前の言葉なのにあまりにも正確だ。

「教育が整備普及されても......」何ともいえない気分になる。

P290
高田文夫『ご笑納下さい』新潮文庫

サブタイトルが「私だけが知っている金言・笑言・名言録」。名言王長嶋茂雄とカッツ石松の例を挙げているが、やっぱり長嶋のほうがすごい。日本語の関節をはずしてしまっている。

「老後はキョウイクとキョウヨウ」が野末陳平の言葉だとは知らなんだ。

P307
横田順彌『快絶壮遊〔天狗倶楽部〕』ハヤカワ文庫

横順と坪内さんの師山口昌男がどうつながるのか、やっとわかった。横順は押川春浪つながりで「「天狗倶楽部」を知り、そこからイモヅル式に」調べていった。

P308
 同様のことをやっていたのが文化人類学者の山口昌男先生で、のち『「敗者」の精神史』としてまとまる連作を岩波の雑誌『ヘルメス』に連載していた当時、(以下略)

つづけて、テニス好きだった山口先生は、田端の「ポプラ倶楽部」を調べていたとも。あの坂道を夏の暑い日に歩いたときのこと、思い出した。20年くらい前だったか。

P328
江藤淳『戦後と私・神話の克服』中公文庫

出だしで驚いた。

P328
 最近読んだ新刊で一番興奮したのは平山周吉の『江藤淳は甦る』(新潮社)だった。

こう書かれちゃあ、著者も悪い気はしないでしょう。読者は、『戦後と私・神話の克服』『江藤淳は甦る』両方とも読んでみたくなる。

P327
柳田國男『日本の民俗学』中公文庫

冒頭、若い人から柳田國男の文庫で、何から読めばいいかと聞かれたら困るとある。結局、本書がいいということ。最適の入門書、アンソロジーだそうだ。ほめてるなあ。

ラストが泣かせる。ツボちゃんが大学一年で、友人の下宿に集まったとき、将来は柳田國男の『明治大正史世相篇』のような作品を書きたいと言ったのだそうだ。結局、『明治大正史世相篇』を通読したのはそれから十年以上のちのことだと記してから、次のように続けている。

P339
 私は今、ライフワークとして『昭和平成史世相篇』を構想している。

草稿はもとより、メモくらいはあるのだろうか。近しい人は、話を聞いたことがあるのだろうか。

P362
石川榮吉『欧米人の見た開国期日本』角川ソフィア文庫

読んでみたい。

P384
都筑響一『独居老人スタイル』ちくま文庫

衰えを知らない好奇心(の持ち主)にしては、「植草甚一(の好奇心)は実はワンパターンだった」という。なぜなら「ある時から映画について語らなくなってしまったし、音楽もジャズからロックに移って、そのあとはない」。「結局、残ったのは街歩きと本(雑誌)探しだ」としている。かなり手厳しい。

ところが、都筑響一は違うというのだ。

P384
ところが都筑響一の興味の対象は次々と変化して行く(本当は変っていないのだが)。

いろいろ含みもあって考えさせられる。植草さんが映画について語らなくなってしまったという「ある時」って、いつのことだったのか。都筑響一の興味の対象は本当は変わっていないというのは、どういうことなのか。自分で調べて考えろと言われそうだな。

 ◆  ◆

本の雑誌初出の「年刊文庫番」からは、細かく抜粋していくときりがないのでやめ。一番面白かったのが最初の年でのやり方。「一九九九年度〈文庫本〉日本一トーナメント」だった。しつこくいつまでも続く説明がなんともいえない。目黒考二さんの炯眼が与えた影響もあったのだとか。