[NO.1511] 雪月花/謎解き私小説

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雪月花/謎解き私小説
北村薫
新潮社
2020年08月25日 発行
220頁

こんな幸せな時間の過ごし方を持てたならいいだろうな、と思わせられた。私小説と銘打ってあるのだから、ここで書かれているのはエッセイではない。だからといって、それが全部、創作されたとも考えられず。なにしろ「私小説」は、ありのままを描くことが本道だったのだし。

デビュー作『空飛ぶ馬』以来の日常にある謎をミステリー小説として書いてきた系譜に本作も連なる。その謎が「本」にまつわっているところが『雪月花』だった。

「本」は読めば読むほどに疑問がわき出てくるところがある。その疑問を「謎」として、面白がりながら解いていく日常。ゆったりとした時間の流れの中で、答えを求めている様子が好ましく読者には映る。文体がもたらすところも大いにかかわっているだろう。

登場人物はごく限られており、担当編集者とユニークな編集長さんや文学館の係員などしか出てこない。いや、「本」の中に出てきた作家たちが存分に面白い。作中では現実の人物と過去に生きた作家たちは、同等の存在感をもっている。「本」を読むということは、過去に生きた人間の話を聞くことだというが、もっともなことだ。

北村薫さんは、本書でも繰り返し「読み」という行為について言及している。それは単なる受動的なものではなく、創作的なおこないなののだ。

◆ ◆

冒頭に出て来る「ヘイミッシュ」にまつわる謎解きが、十分に引き込まれた。漱石の『吾輩は猫である』と「放心家組合」の逸話を想起させられる。

ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』にある「唇のねじれた男」の中、ホームズがワトソンを「ジェイムズ」と呼んだ場面があるという。(何度も読んでいるはずなのに、ちっとも気がつかなかった)。

その理由を解明している人たちがいた。恐るべしシャーロッキアン。しかし、本当は作者ドイルが書き間違いをしただけという説もあるとか。

そんな落ちなど、なにするものぞ。北村薫さんの興味は、「ヘイミッシュ」から去来の俳句に飛び、さらに次から次へと飛躍は続く。

P18
だからどうというわけではない。しかし、考えているうちに、糸が繋がるように、思わぬところで、それとこれが結び付くのが面白い。

「円紫さんと私シリーズ」以来の日常謎解きミステリーが、ふくらむふくらむ。

北村さんの書庫からは、これでもかというほどに資料が繰り出される。書籍だけでなく(それだって御尊父の蔵書まで登場するのだからすごい)、CDが重要な役割を果たしている。原作者の朗読から編集者半藤利一の講演まで。

もちろん、北村さん行きつけの地元図書館を利用するばかりか、地方にまでその手は広がる。本作のおしまいに登場した新潮社の資料室の描写はわくわくする。

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木村毅にまつわるところもいい。古ぼけた塊のような『小説研究十六講』は神保町古書店街のワゴンで見かけたものだが、亡くなったのは昭和五四年だという。長寿だったとはいえ、もっと過去の人物だとばかり思っていた。

P90
その仕事を締めくくるのが、昭和五四年、講談社から出た『座談集 明治の春秋』。松本清張との対談から始まるこの本の、最後に置かれた《多彩な活動の七十年 ―創作・出版企画・明治文化研究など―》は、木村毅入門に好適だ。

「巻末余筆」を引きつつ紹介される編集部の言葉が残る。「木村毅入門に好適だ」とまで北村薫さんに言われてしまうと、読まずにはいられない。

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後半では小沢昭一がいい。昭和四年生まれの小沢昭一の名前にある、「昭」の字がつく大正生まれの人がいる。その理由は?

中村眞一郎が折口信夫に《数回お目に掛かっただけだったが》という表記が、桂芸術選書の『私の百章 回想と意見』(桂書房)にあるとのこと。ところが、中村真一郎の『読書日記』(ふらんす堂)には、《敗戦直後、毎週、出石の博士邸に招かれ、西欧文学を論じた》と矛盾するとも。ここから、謎解きが展開する。

ちなみに、この本は「神保町の古書店街で見つけた百ページにも満たない瀟洒な本だという。

P187
限定千部と書かれているのが、何となく嬉しい。

ますます手に取ってみたくなる。困ったことに、Amazonで検索すると出てきてしまった。881円。切りがない。

いったいどうして、あの「折口信夫が、中村をそのように遇したか。それは堀辰雄への思いからだった」。なるほどと納得した。それでもちょっとひっかかるが。折口信夫とはそういう人だったということだろうか。

P192
あの折口信夫が唇を曲げ、高い声で、
「あなたは、わたしの相弟子です」
といい、中村が身を慄(ふる)わせているところを想像すると面白い。

さすが、作家北村薫の手にかかればこうなるのかと感動する。

展開はとどまるところを知らず、中村真一郎命名「俳句ロココ風」なる単語から、蕪村の句へと続く。

中村真一郎著『俳句のたのしみ』(新潮文庫)にある、「かき書の詩人西せり東風吹きて」から、すごい展開になった。結論は、ここの「かき書」が「かな書」であるべきはずの中村真一郎のミスだった。ミスを引き起こしたであろう原因も究明している。

P196
 編集の方がこの《かき書》についての疑問を中村先生にお伝えしたところ、感謝された、と聞いた。畏れ多い。山崎宗鑑の句といわれるのが《手をついて歌申しあぐる蛙(かはづ)かな》。
 太陽に向かって、片言を申し上げた思いであった。

ところで、そんな中村真一郎がどれほど博覧強記で教養が深かったかを明かした逸話が、前後して二つ紹介されている。そのニュアンスが恥ずかしくなるほどに。

中村真一郎が中学入学当初、「気取ってノートの表紙に《定義集》とラテン語で書いた。」すると数学の先生が綴りのミスを訂正し、「《ラテン語の名刺の複数の作り方も知らないのか》と、呆れ果てたようにいい捨て、去って行ったという」。旧制中学だから、13歳くらいだろうか。

親本『俳句のたのしみ』のカバーにある絵には、「鳥獣戯画の、中村による模写」があるという。その絵の横にフランス語が添えてある。さて、その意味やいかに。謎解きが始まる。

「美女と獣」「の言葉」......。

P197
「ということは......馬鹿者の言葉? さて、どんなところで使われているのですか」
置かれるところによって含みは変わる。膝を打って、
「なるほど、《鳥獣戯語》か!」

これだけでも、わくわくものなのに、金子兜太へと展開は続く。逸話が繰り出される。中村真一郎の自分でも覚えていなかった自作の句を信州追分村にある堀辰雄の家で見つけた人がいた。安東元雄。そこに置いてあった団扇に二句が記されていたのだと。もちろん自筆だろう。

そのことは、親本『俳句のたのしみ』に出ているが、文庫版には削られている。しかも、二刷りから追記されたのだという。発見者安東元雄さんから電話で知らせられたのだ。

しかもつながりでいえば、北村さんは後日、神保町で、『俳句のたのしみ』帯付き書名入り初版本を買った。

理由は

P199
――持っていたい。
と思ったのも勿論だが、初めの本にはこの追記が《ない》ということ、その空白を自分の目で確認したかった。珍しい購入動機だろう。
テキストとして読むには、訂正がなされている後の版の方が適している。これなど、その典型的な例だろう。

と書かれているのだが、どうも言い訳めいて聞こえてしまう。「持っていたい」が、いちばんの理由ではないかな。失礼ながら。だって、署名入りの初版本だもの。神保町の古書店街、三茶書房あたりかな。

さて、展開は続く。

中村真一郎著『蠣崎波響(かきざきはきょう)の生涯』(新潮社)の第六章16「象徴主義俳人 松岡青蘿(せいら)」。すごいタイトルだ、「象徴主義俳人」。仏文と江戸文学の融合。中村真一郎の古典理解を批判している人がいたのを思い出す。それがだれだったか、今となっては思い出せない。

荒海に人魚浮けり寒の月


中原中也の詩

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。

は、確かに並べると、どきっとする。

辞世の句
船ばたや履(くつ)ぬぎ捨る水の月

これは、「詩仙李白は水面の月を捉えようとして世を去ったという伝説を踏まえたもの。」としたうえで、

P200
二百年以上前に逝った青蘿の詩心を今思い、また南伸坊の『李白の月』(マガジンハウス)における解釈、《船頭の見た水中へと沈んでいく李白の姿は、即ち月に向かって昇仙する李白の、水に映った影の方であった》を思う。

南伸坊まで出てきてしまった。その後、親本『俳句のたのしみ』に戻り、裏カバー絵に展開は続く。またもや絵に添えられたフランス語の意味。慣用句「アングルのバイオリン」=「芸術家の余技、趣味のこと」。マン・レイの「アングルのバイオリン」という作品。ネットで簡単に見られる。

そして、いよいよ福永武彦登場となる。絵が上手い中村と福永の絵を評して、友人加藤周一いわく「リアリズムだね、社会主義的リアリズム」だと。出典は、丸谷才一『低空飛行』(新潮社)中の「画家としての福永武彦」。これを探すのに、北村さん、一日がかりだったと。幸せな時間。

加藤周一の評を聞いた福永の言葉がいい。
「ね、変な批評だらう。をかしいよ。意味が判らない」

やっと登場した。福永武彦・中村真一郎・丸谷才一の『深夜の散歩』。

そこから、福永が別名で書いた『加田伶太郎全集』(桃源社)へ。当然のことながら、アナグラムの話。なぜなら、福永がミステリで使ったペンネーム加田伶太郎が、「だれだろうか」の並べ替えだったから。

このあたりのことは、ミステリ好きには周知のことだったのだが、話はさらにとんでもない方向へ進んだ。さすがだ。畏るべし。長くなるので割愛。スキャニングして取っておきたくなった。

P208
快い戦慄が背中を走る。
――福永は偽りの名前から《わたし》を隠し綴り変え、真実を明かしたのだ。
と、こんなことを考えるところに、読む面白さがある。

また、出てきた。「読む面白さ」。

展開は、中村真一郎著『空中庭園』の表紙は福永武彦が描いた水彩画だったことへ。ところで、北村薫さんの(新潮社)担当は若い頃、福永武彦全集に携わったのだという。感無量。

『玩草亭 百花譜』三冊、欲しかった。木下杢太郎の『百花譜』は、見るだけでもいいから、(いつまでも)見ていたい。岩波の上下。

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あー楽しかった。また、読み返したくなってしまった。

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[初出]
〈波〉
2018年4月号(ことば)、9月・10月号(よむ)
2019年3月・4月号(つき)、6月・7月号(ゆめ)
11月・12月号(ゆき)、2020年4月・5月号(はな)