神田神保町書肆街考/世界遺産的"本の街"の誕生から現在まで 鹿島茂 著 筑摩書房 刊 2017年02月25日 初版第1刷発行 2017年05月25日 初版第3刷発行 556頁 |
鹿島茂氏は、「神保町」をテーマに500ページ以上の大作を書いてしまった。古本好きの読者のために、これまで出版された古書街を扱った本とは、ちょっと趣旨が違っていることが巻頭に紹介されている。
「エッセイ的にではなく」「産業・経済・教育・飲食・住居等々の広いコンテクストの中に置き直して社会発達史的に鳥瞰してみようと構想し」たという。神保町という街をとおして「日本の近代そのものを逆に照らし出」したいとも。ずいぶんとまた大きな構想を立てたものだと思ったけれど、読んでいくにしたがって、なるほどとうなずくことも多かった。
大部ではあっても読みやすい。まるでPR誌の文章みたいだと思ったところ、本当にそうだった。
(P.557)
*本書は『ちくま』二〇一〇年七月号から二〇一六年四月号まで連載された「神田神保町書肆街考」全70回を一部再構成し加筆修正したものです。
何十年も出版社の冊子など手にしていないので、ちっとも知らなかった。
出版社サイトに目次あり。リンク、こちら。 全部で6章からなり、明治以降の歴史と地誌を中心に、それこそ幾種類もの視点から綴っている。戦後について出て来るのは最後の6章だけであって、そのほとんどが戦前までの内容である。
途中、具体例として紹介される小説なども、実にコンパクトでわかりやすく要約してくれる。あるいは、こちらが興味をもちやすいところを抜粋してもれてもいるので、こんなに分厚い本なのに、気がつくとページが進んでいた。大学の一般教養の講義を聞いているような調子が多い。
(第1章-4)坪内逍遙『当世書生気質』など、読みにくくて、とても通読はしにくいのだが、なんとも面白おかしく抜粋を交えて紹介してくれる。有名な「牛鍋屋」の場面では、「(まず主人公が友人と)出会ったのが「眼鏡橋」にさしかかるあたり」というが、「この眼鏡橋」は「お茶の水橋でも聖橋でもなく初代の万世橋のこと」である。なぜなら、前者が作られたのは明治二十四(1891)年であり、後者が昭和二(1927)年なので、「この時代にはまだ存在していなかったのである」。このあと万世橋命名の由来等々の蘊蓄が面白おかしく続く。
さらに友人の会話に出てきた「丸屋」が日本橋の丸善であることから、丸善の沿革が木村毅『丸善外史』(丸善)を元にし、間に田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫)をはさんで延々と展開する。途中、当時の理髪店の状況にまで言及しながら。
『当世書生気質』では、その「髪店に置かれた時計(これぞ文明開化の象徴)の音で学生寮の門限」を過ぎていることを知り、思案の末に理髪店のある「雉子町(現在の淡路町交差点の辺り)から、「半町(五〇メートル)ほど先の牛肉屋(牛鍋屋)に入ったのである」。
ここで鹿島茂氏は店名を特定すべく、石井研堂『明治事物起原 八』(ちくま学芸文庫)を用い、ついに元祖牛鍋屋「堀越藤吉の中川屋」であることに至る。
本書の冒頭からして、(第1章-1)「神保町の地理感覚」で、『江戸東京大地図』(平凡社)を元に神保町の変遷を執拗に辿ってた。それだけに、詳細に主人公たちの歩いた道筋を現代の地図に照らして特定していくプロセスは、この場面だけではなく、こののちも度々登場する。
「じつは、私は一時期、「芸者遊び」に凝っていたことがあり(エロス的興味というより、歴史的興味からである。念のため)」という鹿島茂氏による文章の妙味は、二人が出会う前、友人が出てきたところである「講武所の横町」というのが、「講武芸者のいる花街」であったり、牛鍋屋を出た二人が寄席のあとに入った「俗にいふ矢場横町」の説明にページを割いている。『広辞苑』によると「揚弓場」とは「料金を取って揚弓の遊戯をさせた場所。神社の境内または盛り場などに開店し、美女を店頭に置いて客を呼び、ひそかに売色させる者もあった(以下略)」という。
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P288~289
「東方學會」(西神田2ー4-1)として組織の変遷も紹介されているが、その建物自体に興味がわいた。大正15(1926)年竣工の日華学会ビルが、現在も「東方學會」ビルとして使われているのだという。この前は何度か通ったことがあっただろうに、気がつかなかった。こうした古い建物は、いつの間にやら取り壊されてしまっているだけに、貴重だ。
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本書の前半部(第1章~第4章)の中で、多くを割いているのが学校について。東大からアテネ・フランセまで、詳細に紹介されている。読んでいると、学制の移り変わりを勉強しているかのよう。
夏目漱石『坊っちゃん』の主人公が物理学校の卒業生だったことは有名だ。しかし、この学校の沿革と当時の事情をこと細かに説明されて、あらためて『坊っちゃん』が物理学校に入学し、卒業したところを引用されたのを読むと、今までとは深みが違ってしまった。面白い。
そんな中で第4章の最後、ニコライ堂が登場する文学作品として紹介されているのが山田風太郎『ラスプーチンが来た』(文藝春秋のち文春文庫)だ。P340~の抜粋とその扱いは、本書の白眉だった。うまい。
本書における抜粋を交えた紹介の手腕は感心するしかない。
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第5章からの古書肆街の形成にある地図類が面白い。
P348
①神田古本屋分布図(明治36、7年頃)の拡大図
出典『神田書籍商同志會史』昭和12(1937)年発行 在明治大学図書館
P350
②『東京古書組合五十年史』付録「神田古書店街配置図 大正十年頃」
P392
③昭和14年 東京古書店地図
『東京古書組合五十年史』(東京都古書籍商業協同組合)
P497
④昭和22年9月24日現時の露店分布図(『東京古書組合五十年史』より)
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一誠堂と反町茂雄の歴史が詳細に紹介されている。帝大卒業で丁稚に入ったという有名なエピソードの裏側を知ることができた。『日本古書通信』を含めた八木書店の歴史も。
これも有名な「九条家本購入始末」も面白かったが、むしろ反町茂雄が独立してからの話が興味深かった。商才に長けているというのは、こういうことなのか、と思ったのが、終戦間際に不動産の買い漁りについてのエピソード。『一古書肆の思い出』(平凡社)を読んでいないので、知らなかった。ページは前後するが、以下のとおり。
P480~
西方の自宅近くまで空襲が及んだので、練馬のトマト畑の中の戸建てを買って移る。八月九日ソ連参戦を十日の新聞で知ると、日本の降伏を確信し、第一次大戦後のドイツの大インフレを想起して、終戦が確定するまでの間に、十二、三万の手持ち資金で不動産を買いあさったというのだ。
8月11日から空き屋探しに奔走、東長崎で小庭付き二階屋を2万5千円で購入。中野でお風呂の売り物を2万円。13日には鎌倉方面へ出向いて、鵠沼海岸で土地三百余坪、建物五十五坪の家を5万5千円で購入している。手元の残金は2、3万円となったという。たった3日間でのことだという。
こうして得た不動産を売りながら手にした資金で、それから大量流出する最高の古典籍を手に入れたのだ。なにしろ華族や富豪が続々と重美・国宝クラスの類を手放すことになるのだから。
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P421「神田と映画館」では、話には知っていた内容を具体的に地番で紹介され、ずいぶん納得をした。こちらは東洋キネマくらいしか、現在での場所を把握できていなかった。
植草甚一が勤務したという銀映座の場所。実にわかりやすく紹介してくれている。
P440
「神田銀映座」があったのは神田神保町二丁目六番地四号、専大前交差点から、今川小路と呼ばれた専大通りを水道橋方面にワンブロック行った場所、現在は「クダンPLAZAビルディング」になっているところである。みずほ銀行の裏の路地といったらわかりやすいかもしれない。
これまで、J・Jおじさんの大量の本を読みながら、ピンときていなかったのだ。ここで紹介されている本は、ほとんど全部読んでいたのに。
『植草甚一スクラップブック39 植草甚一日記』(晶文社)
『したくないことはしない 植草甚一の青春』(津野海太郎、新潮社)
『私説東京繁昌記』(小林信彦・荒木経惟、ちくま文庫)
さすがに徳川夢声は読んでいなかったが。
東洋キネマの傍にあったという名曲喫茶田沢画房の看板娘田沢千代子も面白い。忘れていたなつかしいサイト「神保町系オタオタ日記」も紹介されていた。なにより、草野心平のエピソードがいい。ここで聞いた「ブルーダニューブワルツ」を、敗戦後の南京で抑留されていたときに再会した旧友黄瀛(こうえい)が、聞かせてくれたという話。感動的だった。二十年前、この二人が初対面の直後に入った田沢画房で、この「ブルーダニューブワルツ」が掛かっていたのだ。
この店に出入りしていた有名人の名前も恐れ入るしかない。高村光太郎から、おそらく東京時代の宮澤賢治まで顔を出していたのではないかという。
須田町交差点とこの神保町交差点が市電の乗り換えターミナル地点だったために、繁華街となったということも、読んで知ってはいた。しかし、うすらぼんやりとしか想像がつかなかったのだ。かつては「すずらん通り」と「さくら通り」がどれだけ賑やかだったかなど、想像もつかない。今や殺風景な小林信彦の生家跡の通りが、舶来品を多く扱った店が並んでいたというくらい、驚くしかない。
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冒頭に触れた「社会発達史的に鳥瞰してみ」たいといった本書の目的が、なるほどと思えたのが、P501からの「中央大学の移転とスキー用品店の進出」だった。明大の師弟食堂の裏口を出たあたりで、こちらの知らぬ間に、いつの間にか中央大学の敷地に入ってしまうような迷路だった。それが1978年の中央大移転後、すっかり寂れていった。たしかにスキー店が賑やかになったのが、同じ時期だったと言われてみれば、そうだったのかもしれない。
学生運動が大きな社会現象となった理由とスキーが流行した理由とがユーモア混じりに説明されている。
P510
中央大学の全面移転と小川町のスキー用品専門店街化、この二つは、団塊世代の「革命」から「消費」への転換を見事に象徴しているのである。
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P510からの神田村、取次店の栄枯盛衰では、衰退理由が手短に紹介されている。1970年代半ばで生じた「知のブランド」の「バブル」が弾けたことだという。本という「耐久消費財」が単なる「消費財」となったことが原因だとする。
勤務校だった共立女子大の近所とはいえ、小学館と集英社の歴史については触れていて、河出書房は出てこなかった。
P527~「現代詩の揺籃期」でのユリイカ事務所の話が面白かった。ミロンガに名前がかわる前の店で武田百合子が働いていたという話は知っていたが、その隣の2階事務所の詳しい変遷までは知らなかった。喫茶店さぼうるの人気が列をなすほどに高くなってしまい、ラドリオには時々履いていた。その向かいの13階段を上った2階にあったという1室に、家主・守谷均の昭森社、伊達得夫の書肆ユリイカ、小田久郎の思潮社。ユリイカの前には『列島』、さらにその前は荒正人らの『近代文学』があり、「ペン、インクの類は、そのまま引き続き使用していた」。
ミロンガになる前の「らんぼお」について。同店に顔を出していた有名人の話もまた、うすぼんやりとは知っていた。「らんぼお」が閉店したのが1949年4月ころだったとか、その隣にはアテネ画廊があったとか。なるほど。ずっと舗装もされず、じゃりだったとか。那珂太郎や中村稔のエピソードも。
青木書店がでてくるのは、ほとんど最後だった。店主青木正美は15年以上も建場巡りを続けたという話。
P556
神保町から「学者が去って、オタクがやってきた」。
新人類世代の大塚英志とオタク命名者の中森明夫。
P552
オタクの出現時期については諸説あっても、「オタク」という命名がなされた時期とメディアについては同定されているという。大塚英志が編集人だった「漫画ブリッコ」(セルフ出版)1983年6月号から3号にわたって連載された中森明夫「『おたく』の研究」だそうだ。
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巻末には索引だけでなく「書名索引」まで付されている
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