[NO.1507] ユーカリの木の蔭で

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ユーカリの木の蔭で
北村薫
本の雑誌社
2020年05月20日 初版第1刷発行
279頁

帯にいわく、「本から本への思いがけない旅」をまとめたもの。どれも短くて読みやすい。それなのに中身は濃い。P243 「こういう本の連鎖が面白いのだ」とある。次から次へと北村さんは本を紹介してくれる。そのつながりは意外性を秘めたものばかり。コーディネートが上手いのだ。

ページの中ほどに収められている「北村薫のベスト3(2001~2019年度)」がいい。これだけでも収穫。本の雑誌に連載していたときに出会ってから、ずっと心強い頼りとしていた。親切な北村さんはベスト3とあるのに、3冊以上も紹介してくれていることがある。

月刊誌『本の雑誌』に連載していた記事をまとめたものとばかり思っていたら、それだけではなく、別冊文藝春秋の記事も入っていた。年代からいえば、こっちのほうがむしろ長い。

初出
「別冊文藝春秋」2006年7月号~2015年3月号
「本の雑誌」2015年5月号~2017年7月号

ところが、では掲載された記事のなかで、どこから「本の雑誌」の記事なのか、目次や本文からだと見分けられない。あれま。

最初に巻頭詩。なんだか西洋の格式ある本のよう。シュペルヴィエル作、安藤元雄訳「動作」。この詩の中に「ユーカリの木の蔭で」という記述が出てくる。ところで、この詩の出典はどこでしょうか。

巻頭詩の次からは、3ページで1回分として、本の紹介が続く。題名の下に白黒写真で書影がある。1回だけレコード(今やCD)のカバー写真。

もちろん例外はあって、P71には追加写真がある。キャプションに泉鏡花『日本橋』小村雪岱装丁/千章館/大正3年刊。どうやら復刻版らしい。文藝春秋社の読者プレゼントの品物選びを頼まれた北村先生は、文芸書の復刻版を買った。それが上記の本。

どこか別の本で読んだのだが、復刻版のなかでも鏡花のものはきれいなので、古本屋で見つけると、友人への贈り物用として買うのだという。はて、それはだれのなんという本で読んだのか、さっぱり覚えていない。しかし、なんといいことを教えてくれたのだろうと思ったことは、しっかり記憶にある。

早速、古本屋回りのときには、意識して探した。神保町の古書街だけでなく、他のエリアでも。ところが、それがちっとも見つからないのだ。ずっと、何年も気にしていたのに。やっぱり、きれいなものは買われてしまっているのだろうと、すっかりあきらめていた。

ところが、先ほどネットで「日本の古本屋」を調べると、1000円から出ているではありませんか。あははです。なかにはけやき書房さんに本物が748000円也。おお、川上澄生装丁の版画荘版『猫町』萩原朔太郎が55000円だ。うーむ、こちらが所持しているのは、もちろん復刻版。発行所 政治公論社「無限」編集部から昭和43年に出た版。脱線ばかりが続くので、ここで修正。もっとも、本書のなかでは、著者もゆったり書いているせいか、ところどころで蔵書自慢が茶目っ気まじりに出てきます。

 ◆ ◆

およそ本書について、まとめようとすると手に余ってしまう。つれづれなるままに、著者が取り上げた本にまつわるお話なのだから。

ならば、こちらも紹介された本とそのエピソードの中から、気に入ったところを残して置きたくなる。機会があれば、自分でも読んでみたいし。

っということで、以下、そのように。

 ◆ ◆

P34
『古書肆「したよし」の記』松山荘二/平凡社

明治から昭和二十年代半ばまで、東京下谷御徒町にあったという吉田書店についての本だという。[吉は下が長い方]

下谷の吉田だから通称「したよし」。荷風を始め、この店を贔屓にした文人は数多く、その名前がすごい。「勝海舟から高村光太郎まで」なんだそうで、ほかに北村さんがここに挙げているだけでも、奥野信太郎、三田村蔦魚がいたという。どこの店であっても、これまで古書店の常連として、勝海舟の名前が取り上げられたという例は見たことがない。

こんな本があるなんて、知らなかった。興味深々。

 ◆ ◆

『はたらくわたし』岸本葉子/成美同出版

「仕事」についての考えかたがよかった。

岸本葉子さんが取材で出会った石村由起子さんは、奈良でカフェ、雑貨屋、小さなホテル、レストランを開いている。店で使っている器は、湯飲みにしても、石村さんが少しずつ集めてきたものだという。そんな店を開くのは、ひとつの理想だろう。ところが、石村さんいわく、「お店をオープンしてから、三分の二は割れました」。

その言葉には驚くしかない。そこで、北村さんは次のように書く。

P67
これが《仕事をする》ということだと胸をつかれた。それなしにはすまないのだ。時として、最も大切なものを踏みにじられる。その苦しみの先に仕事がある。

 ◆ ◆

P77
『書林探訪――古書から読む現代』紀田順一郎/松籟社

天下の紀田先生の古書についての本なだけに、次の回でも同書に触れている。

P78
こういう本を読むと、話の種になるようなことが次から次へと出て来る。

おもしろいことに、さらに次の回でも、同書にまつわる話が続く。『書林探訪』から3回分の話の種を引き出しているのだ。そのどれもに、面白く読ませてもらえる。悲しいかな、自分でも読んでいるのだが、記録すら残していなかった。いったいどこを読んだのだろう。

P82
『書痴半代記』岩佐東一郎/ウェッジ文庫

これも知らなかった。だいたい「ウェッジ文庫」じたいが、3年間しか刊行されなかったのだ。いうなれば、文学の「サンリオSF文庫」のようなもの。買っておかなかったら、今や古本屋で手に入れるしかない。『書痴半代記』は図書館にもなかなか入っていない。

ここの回での題名は「いわずもがな――か?」 洒落、パロディが時代が進みにあたって、次第にわからなくなっていることについて書いている。

P83
難しいことはさておき、生活の変化が激しくなると、こういった日常のありふれたことが分からなくなる。

つまり、「古い人間からすれば、洒落の通じぬ世の中になる」ということだ。そこでつけたタイトルが、先の「いわずもがな――か?」。小林信彦さんが書くものに、同じようなことが増えてきたのは、いつからだっただろう。山本夏彦は開き直っていた。惜しくも亡くなってしまった坪内祐三さんは、編集者のくせに何を間違えているのだ! と怒っていた。

いつの間にか、自分でも似たようなことに出会うたびに、繰り言めいたことを思いつくと、「いわずもがな」という文句が思い浮かぶようになっていた。北村薫さんは、最後に「?」をつけ、自問自答しているところが違う。でも、それだからこそ、こうしたことは、残していかないと、おかしなことになってしまう。

 ◆ ◆

P84「妥当な読み」/P87「様々な読み」

萩原朔太郎「山に登る」という詩について、三好達治がおかしな解釈をしているということから、「妥当な読み」「様々な読み」ということになった。いろいろな事例を挙げながら、最後に書いている。

P89
読みの価値は、妥当かどうかでは決まらない。
実に創作的解釈だ。読みが冒険であることを如実に示している。

いわゆる入試でよく言われるような画一的な答えの例ではない。読むという行為について、考え抜いてきた意見だ。読みの価値や読みが冒険であるという考えを示されると、はっとする。

P87
いうまでもないが、《読み》について語る時、人は作品を語るわけではない。自分を語っている。有名な言葉を引くなら、美はそこにあるのではなく、見る眼にあるのだ。

忘れていましたよ。久々に思い出させられました。小林秀雄の言葉。「美を求める心」にある、有名なフレーズ。前半の部分も、すっかり忘れてしまっていた。作品ではなく、自分を語っている。小林秀雄は批評について書いていた。

P86
詩人も作家も評論家も、妥当な読みをする必要はない。いうまでもないことをいうのは、紹介者の仕事だ。

これも北村薫さんの言葉。つまり「紹介者」=「書評家」は、「妥当な読み」=「いうまでもないこと」をいうのが、仕事だということでいい? 妥当な読みを外れたときには、書評家は評論家になるのだろうな。

なんだか、すごいことになってきた。そういえば、書評家なる言葉を目にするようになったのは、いつごろからだっただろう。最初に目にしたときには違和感があったのが、いつのまにか慣れてしまった。

本の雑誌の初代編集者である目黒孝二が、まだ「釜たきメグロ」だったころのこと。日がな一日、好きな本をただ読むだけを仕事にできたらいいのに、という夢のようなことを書いていた。気が向いたら、ちょこっと紹介文を、それも友達に向け、書くだけ。『本の雑誌』の原点は、シーナさんのそんな手書きのコピーだったはずだ。書評家の元祖は目黒孝二さんだと思っている。

椎名誠はモンゴルで馬に乗ってるイメージだし、沢野はイラストをサボってばかり、木村先生は八丈島などで忙しく、菊地仁だって。切りがない。

豊﨑由美さんが、肩書きを「書評家」と書かれたいといっていたのは、いつのことだったやら。「文学賞メッタ斬り」(ファンです)で、相方の大森望さんは編集者・翻訳家し。

気がつくと増えていた「書評家」という肩書き。かつて、コラムニストという言い方があって、揶揄された。エッセイストというのも。元祖は「コピーライター」あたりかな。それらの手前に「自称」をつけると揶揄することになる。「コピー」をはずして「ライター」というのもあった。和訳では文筆家か。

本に戻さねば。

 ◆ ◆

P97
お江戸にも春は来たりて嫁菜など杉浦日向子が炊いてゐるのだ

『あふむけ』梶原さい子/砂子屋書房

「固有名詞(の中でも)特に人名を歌の中に入れるのは難しい。」なぜなら、「同時代には理解されても、時が経てば意味の分からぬものになってしまう」。例として、藤原隆一郎の次の歌を引いている。

P97
散華とはついにかえらぬあの春の岡田有希子のことだろう

いきなりこの歌を並べてくるところは、アンソロジスト北村薫の面目躍如だろう。アンソロジストというよりも編集者といったほうがいいかもしれない。

北村さんは杉浦日向子さんのことを「あの忘れがたい笑顔」といっている。こちらは「お江戸でござる」などのテレビでしか見たことはない。お会いになったことがあるのだろうか。今も生きていて欲しかった。とんでもない大冊を書いていたのではないだろうか。いや、そんな野暮な本ではなく、もっと洗練された作品かもしれない。

話は「嫁菜」飯をめぐって進んでいく。

 ◆ ◆

店屋物を取る感覚

P111
 我々が子供の頃、普通の家で、お客様が来たわけでもないのに店屋物を取るようなことはあり得なかった。経済的にもそうだし、何より生き方としてあり得ない。主婦の恥なのだ。(略)
 この感覚が、若い世代になると全く分からないらしい。

さあ、困った。なんと説明してよいものやら。「若い世代」がどのあたりまでを指すのだろう。「経済的に」は、まだわかりやすい。まだまだ貧しかった昭和の時代でいい。(よくないか?) 困ったのはその次だ。「何より生き方としてあり得ない」。この生き方というのは誰を指していうのか。主人か、主婦か。いやいや、家族全員だろう、子供はもちろん除外して。サザエさんあたりを思い浮かべるといいかもしれない。このあたりが、かろうじて若い世代との間をつなぐパイプのようなものなのか。「主婦の恥」は、お船さんや裏のいささか先生の奥さんあたりが、そう言いそうではないか。これが向田邦子の世界にまで遡ると、これはもう。

 ◆ ◆

P169
新潮社の雑誌『考える人』特集「小林秀雄 最後の日々」には付録としてCDが付いているという。これに1979年7月に行われた小林秀雄と河上徹太郎の対談が収録されている。ふーむ、そういえば、それが出されたときに話題になったような気がする。もともと小林秀雄の講演はあまり好きではなかった。以前から、べらんめえ口調のカセットテープが出回っていた。

ところが、ここで北村薫さんが紹介している文章を読むと、無性に聞いて見たくなるのだ。河上徹太郎は、この対談の翌年に亡くなっている。そして、ここに大岡昇平の話が加わるのだ。大岡昇平の『成城便り』に載っているという。成城便りは小型のハードカバーで買いそろえ、何度も愛読していたのに、ちっとも覚えていない。それなのに、ここに引用された文章を読むと、『成城便り』独特の文体とリズムから、いろいろな思い出がよみがえってくる。怖いものだ。

P170
《筆者生意気盛りの十九歳の五月より、五十二年来の先輩。成城高校二~三年の一九二八年(昭3)、二月に小林秀雄を知り、三月中原中也、五月河上と続いて、めちゃくちゃな文学生活となる。》

もっとも、この部分は有名で、いろいろなところでも引用されたような気がする。なにはともあれ、雑誌についてネット検索するとすぐ出る。2013年5月号。古書でも買えそう。聞いて見たくなる。

河上 今生の別れだな
小林 今生の別れでもいいや

『成城便り』のなかで、彼らがいくら親友でも「今生の別れ」なんていえやしないとしているのだという。自分でも比べてみたくなる。

ネット検索すると、youtubeにアップされていた。1:06:30 長い。

聞いてみた。「今生の別れだな」「今生の別れでもいいや」は、59分12秒のところでやっと出てきた。たしかに、前言は河上で、後が小林だった。しきりに、河上は「疲れた」を繰り返している。この対談の前まで、寝ていたとも言っている。その流れで、出てきたのが、この「今生の別れだな」だった。

対談の出だしでは、互いに「君」と呼び合っていたけれども、終わりの方では「おい、お前」「おい、小林!」になっている。神戸から編入した旧制府立一中で出会ったときに、戻っているようだ。出会ったのは小林秀雄13歳、河上徹太郎14歳あたりのはず。すごいな。

 ◆ ◆

『男友達との会話』白州正子/新潮文庫

P182
講演がうまくいなかいと小林は《一生懸命になる人なの。パーフェクトにしなくちゃいやで、志ん生の全集で勉強した、間から発音の仕方から全部勉強したのよ。鎌倉の海岸を歩きながらお稽古したんだって》。

これって、いったいいつごろのことなのだろうか。志ん生の間から発音の仕方まで全部勉強したというのは。(鎌倉の海岸を歩く姿が思い浮かぶ。)

なぜなら、志ん生とは言わずとも、落語の全集をそろえて勉強するのは当たり前だと聞いたことがある。いったい誰が、と突っ込まれそうだが。

サイデンステッカーが落語で勉強した話が、最後の回に出ている。

P274
『人間ぱあてい』高橋治/講談社

この本によれば、二人が出会ったのは大学の教室だった。その頃、高橋が桂文楽の速記本を勧めると、ちっとも読めないと困ったのだという。サイデンステッカーは硫黄島で米軍海兵隊の通訳を経て来日して数年になっていた。それなのに、桂文楽が読めない。これまで優秀な学生として勉強してきたけれど、その何は、落語に登場する世界や語彙は想定外だった。そこで猛勉強をした結果、寄席で笑えるほどになった。落語をとおして「日本語を学ぶと同時に、文化、人類学、社会学、民族学、時代考証なども並行して学ぶ結果になった」のだ。

北村薫さんは、文末に次のように書いている。

P276
 時の流れがあまりに速くなり、生活が変わり、当たり前の日本語が、どんどん通じなくなっている。
 明治の文章どころか、大正、昭和のそれまで読めないようでは、あまりに寂しい。

だから、落語で日本語の豊かさを、と続けるのだが、むしろ、その前のところが気になった。明治や大正の文章が読めないことはわかる。鴎外や鏡花などを思い浮かべれば納得する。しかし、昭和だと作家でいえば、誰あたりになるんだ? 

 ◆ ◆

「あとがき」に北村薫さんは日記を書かないとある。たまたま読んでいた『また、本音を申せば』(文藝春秋)の著者小林信彦さんは、若い頃から日記をつけている。この『また、本音を申せば』でも古い映画のことが出てくるのだが、どの映画館で見たのかまで記されている。とても記憶だけでは書けないだろう。

P279
記録がない。残っているのが、きらきらした輝きの記憶だけだったりします。

潔い。読書記録はつけていたのではなかっただろうか。マニアックな推理小説順位表を高校生のころにノートに書いていたという話を読んだ記憶がある。創作ノートやアイデアを書き留めたノートはあるのだろう。

P18「これも誰ゆえ桜姫」の回に「わたしはパソコンには触らない」とある。学生時代からの膨大な録音テープが劣化するので、MDにコピーしたという。これもまた、北村薫さんらしい