[NO.1501] 禁煙の愉しみ

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禁煙の愉しみ
山村修
洋泉社
1998年08月07日 初版発行
187頁

なんともおかしな本だ。禁煙といえば、いわゆるハウツー本が多いだろう。ところが本書はまったくそのようなデータの類は出てこない。ただひたすら、筆者山村さんが禁煙をしたときの心理状態、考えたことなどを綴っている。それも蘊蓄が満載で。

もともと、山村修さんはペンネーム〈狐〉で、書評の分野では有名なお方で、何冊か愛読していた。たまたま、その書評の本の裏表紙に代表著作が列挙してあって、その中に本書のタイトルが並んでいたのだ。

ちなみに、山村修さんは2006年8月14日に肺がんで亡くなっている。そのことは以前から知っていた。それなのに、こんなのんきな書名の本を書いていたことに、ちっとも気がついていなかった。

『禁煙の愉しみ』は、この洋泉社版が最初で、その後、別の出版社から2種類が出されている。

◆ ◆

この本でもっとも記憶に残っているのは、禁煙にあたって、我慢は禁物であるということだった。「切羽詰まった」心理状態になったときに、必ず禁煙が続かなくなってしまう。禁煙を続けるコツのようなものとして、筆者山村修さんの言い方をすれば「サーフィン」の波に乗るようなイメージ(心持ち)ということらしい。このことは、自分でもなんだか納得がいった。

追い込まれた気分になったときには、どうもうまくいかないことが多い。どちらかといえば、喫煙から離れ、別のことに気を紛らわせられたときに、続きそうな気がする。うーん、自分で書いていて、「気を紛らわせる」とはちょっと違うぞと思う。山村さんはそんなことはいっていない。それに自分で違和感を感じる。そうではない。それが、次のことを指しているのだろう。

山村さんがいうには、禁煙をすると必ず、別の新たな状態が引き起こされるのだという。ニコチン離脱症状から起きる、その症状は個人によって千差万別である。しかし、必ず、なにか変わった状態が生じる。その状態を受け入れ、愉しむような心持ちを持続させることがコツだというのだ。どうも、自分ではうっすらと思い当たるような気がする。

P166
(禁煙を)成功した人が、どうしてはじめのニコチン離脱症状に耐えられたのか。それを書いた文章に私は出会ったことがない。あえていえば、それは耐えなかったからなのだ。逆説でも何でもない。耐えようとすれば失敗する。耐えようとしなかったからこそ、禁煙できたのではないか。

P167
(ニコチン)欲求が我が身を突き上げているという常ならざる感じを、全身で味わってみることである。欲求の強さに身がねじれ、うねるような気がするならば、心持ちもいっしょになってねじれ、うねってみることである。
(途中略)
そうした異様な感覚を、押さえようとするのではなく、忘れようとするのでもなく、むしろ自分から進んで味わおうとすること。そのことができなければ、禁煙はできないと私は思う。

さすが山村修さん、描写が独特である。この「常ならざる感じ」感覚というのが独特だと思う。自分では「突き上げて」というのとは少し違った。他の人はどうなんだろう。

何度も繰り返し書かれていることは、「禁煙は我慢ではない」「辛抱だと思ったら、もうそこで負けている」「かつて覚えのないような感覚の揺さぶりに、どれだけ胸をざわめかせ、とどろかせ、乗ってみることができるか、それが勝負だ」。

山村さんによれば、禁煙には三つの手があるという。

〔その1〕
幸いなことに、ニコチンは摂取を止めても手が震えたりする身体症状は起きない。喫煙への渇望感が募るばかりである。その感覚を、ひたすら「好奇心と求知心とで愉しむ」。

〔その2〕
何度も失敗してみること。そうそうあっさりと成功できるわけがない。失敗して恥をかくことが大切である。すんなり成功できるなら「依存者」とはいわない。(山村さんのかいた恥の例が、たんまり出ている。)

〔その3〕
禁煙者のカレンダーのこと。一月が過ぎるころから先は、個々によってさまざまな日々、月々が訪れるだろう。しかし、「誰にも共通して設けられるべき月」「祝祭の月」がある。誰かからほめられたとしても、それは「およそこちらの思いとは見当の違う方向からの言葉を受けるにすぎないだろう。」「せめて自分で自分を讃えようではないか。」「カレンダーにぜひ禁煙祭を設けようではないか。」

禁煙が長続きするためには、どのように考えたならよいのだろうか。禁煙はよくマラソンのように見なされることがおおい。しかし、本当はマラソンでいうところのゴールなど、ないのだ。

「禁煙に対して私(たち)のもっている長距離レースのイメージそのものがいけないのだ。」

「禁煙は越境である」「これまで知らなかった場所で、知らなかった日々をはじめることだ」。

何年たっても、おそらく山村さんにとってのゴール、禁煙のことを忘れ去ってしまう境地は、おそらくないという。

それでも(と山村さんは書いている)、「禁煙を愉しみ」、「その思いが体感になれば、つまり、いまだに波打つ禁煙欲求そのものを身体のリズムのように感じることができれば、もはや禁煙を果たしたといえるのではないか」。

本書の出版から亡くなるまでの8年間、山村さんは禁煙が続いたのだろうか。

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この本が他の禁煙書と違っていることに、筆者山村さんの禁煙をした理由がある。

P15
私が禁煙したのは――どうか笑わないでほしい――、禁煙というものが喫煙者である私にとって、まさしく想像を絶する状態であり、私はその想像外の境地に立ってみたくなったのだ。

P16
煙草をやめれば、まず間違いなく、思いの外の心理状態に陥ることになるだろう。それがどんなものか知りたかったのだ。

こんな中2病みたいな理由って、なかなか聞いたことがないだろう。その結果、まるまる一冊の本になった。

◆ ◆

なにしろ187頁もあるので、ご本人が禁煙にあたって採用したという手を替え品を替え(逆立ち、ひょうたん栽培、パスタマシン(製麺機)、聖書専用バッグ、謡曲稽古等)の具体的な日常が子細に書かれている。それらの詳細は省略する。

哲学者カントから斎藤茂吉などまで文人墨客の喫煙・禁煙にまつわるあれこれが、これでもかと列挙されている。なにしろ、何十年にもわたる書評家です。洋の東西を問わず、紹介している人物や本の題名だけでもすごい。なかでも奇書と呼んでいるのが、安田操一『禁煙の実験』(明治四十三年一月、東亜書房刊)。

早速、ネットで「日本の古本屋」から検索すると、3千円で出てきた。リンク、こちら。さすがに買わないだろうな。

安いわけだ。「国立国会図書館デジタルコレクション」から公開されていた。リンク、こち