漱石と鉄道 牧村健一郎 朝日新聞出版 2020年-4月25日 第1刷発行 313頁 |
夏目漱石の小説に登場する「鉄道」という視点は前から気になっていた。本書の「はじめに」では、『三四郎』の冒頭が東海道線の車中であることが指摘されている。それよりも漱石のもっとも有名な小説である『坊っちゃん』では、主人公が四国から東京に戻ってきて、就いた職業が「街鉄」の技手だったということのほうが気になっていた。森田芳光監督の映画『それから』でも、市電の中でいきなり乗客たちが花火を始める場面が印象に残っている。もちろん原作ではそんな場面はないけれど、小説の最後の場面が電車(市電)の中で終わっている。有名な代助の頭の中で「くるくると」回転し、渦をまくところ。
これも、うっすらと気になっていたのを、本書で指摘されてから、あらためて気がついた(といえるのかな?)。漱石自身が鉄道に乗って国内を遠距離移動していたのだ。赴任先が松山中学校、熊本の第五高等学校と、これだけでも当時としてはなかなかなものだろう。熊本時代には、義父葬儀のために夏休み中に東京へ往復している。当時は、まだ広島~門司間の鉄道は開通していなかったという。(ロンドン留学中、地下鉄に乗った話も面白い。)
本書では、「作品や日記、書簡などをもとに、当時の時刻表や旅行案内を参考にして、できるだけ忠実に漱石の汽車旅の足跡をたどり、再現して」いる。時刻表は『復刻 明治大正鉄道省列車時刻表』全二〇冊、ほかにも荒正人編『漱石研究年表』も使ったという。
著者竹村健一郎さんは、実際に現地に行った様子を書いている。すごいのは、大連やスコットランドの田舎まで行っているところ。
都内だと、P108 小川町交差点について。『彼岸過迄』第二編「停留所」は小川町の市電停留所が舞台。「じつに細密な描写」から、「よほど土地勘があったのだろう」と著者竹村さんは思っていたところ、半藤一利『続・漱石先生ぞなもし』に、明治四四年八月の講演旅行後、泌尿器科の佐藤診療所に一日おきに通院したのだという。この診療所が小川町のすぐ近くにあった。「大通り沿いの唐物屋のわき小道を入ったところ(現・神田錦町一丁目)」の停留所のすぐ近く。
このあたりは自分でもよく通る。秋葉原の電気街から神保町の古書店街へと抜ける経路にあたるのだ。「どこにでもある十字路で、当時の面影を探すのは難しい」とあるけれど、そこからちょっとのところにある、旧中山道と靖国通りと国道405号に挟まれた三角地帯には、火事で焼けてしまった「かんだやぶそば」、和菓子「竹むら」、あんこう「いせ源」、すき焼き「鳥 ぼたん」などの店が並んでいる。古いビルにも趣のある建物がある。
目次
第一章 東海道線
第二章 御殿場線・横須賀線
第三章 市内電車・甲武鉄道
第四章 日本鉄道・信越線
第五章 関西私鉄・山陽鉄道
第六章 九州鉄道・伊予鉄道
第七章 ロンドン
第八章 シベリア鉄道・南満洲鉄道
終章 胃潰瘍と汽車の旅
一番面白かったのは「坊っちゃんの四国行き」だった。主人公が、どのように四国まで行ったのかを推察している。ポイントは、漱石自身が松山へ赴任したのが1895年で、小説『坊っちゃん』執筆は1906年と約10年の開きがある。そこで、筆者牧村さんは、実際の漱石の松山まで赴任したときのルートを調べている。面白いのは『坊っちゃん』を手掛かりにしているところ。小説を書くにあたって、「当然、自分の体験を踏まえているはずだ」からだという。そして、詳細なことで有名な荒正人編『漱石研究年表』とは違う、別のルートを提案するのだ。このあたりのところ、なかなかスリリングでよかった。
P174
『漱石研究年表』は、東海道線、山陽鉄道を経て広島(宇品)から船で松山(三津浜)入りした、という説だ。
ところが筆者牧村さんによれば、
P175
神戸から鉄道ではなく船で瀬戸内海を西に下り、三津浜港に向かったとも考えられる。
というのだ。ここでの詳細な検証がいい。時刻表『汽車汽舩旅行案内』(明治二七年一一月)を使う。併せて『坊っちゃん』の出番だ。映画で描かれてもいる、汽船から艀(はしけ)に乗り移って上陸する場面である。『坊っちゃん』の暑い日差しの描写と時刻表を照合し、また小説中
P175
ぷうといって汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せてきた。(途中略)事務員に聞いて見るとおれは此処へ降りるのだそうだ
という事務員との受け答えから、筆者牧村さんは「この船(汽船)はさらに遠方へ行くと想像できる」し、「宇品-三津浜のような短距離航路ではなく、大坂商船の長距離航路とみたほうが自然だ」と結論づける。「小説の記述を実体験だと即断できないが」としているが。
『坊ちゃん』の帰京時の描写も説得力がある。「船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は(略)」。
P195~ 「軽便鉄道」の話も面白かった。
・道後温泉のものはドイツ・ミュンヘン製の輸入車だった。
・豆相人車鉄道からアメリカ製蒸気機関車の熱海へっつい機関車(芥川龍之介『トロッコ』の舞台
・大正時代、地方での軽便鉄道ブーム(軽便鉄道法なる法律ができた)
・国鉄西奈須野駅から塩原温泉入り口までの軽便鉄道
・岩手軽便鉄道と宮澤賢治(漱石が満州旅行で乗った「安奉(あんぼう)線」は、軍が速成で敷いた軽便鉄道だったので、後に標準軌に直した。そのときに不要になって日本各地に払い下げられた。そのひとつが岩手軽便鉄道だった。)
第七章はロンドン時代、第八章はシベリア鉄道・南満洲鉄道。漱石は予想外に旅をしていた。ロンドン留学中には、スコットランドにまで足を運んでいる。P224 おまけのように、山田風太郎の短篇『黄色い下宿人』を紹介している。ホームズもののパスティーシュ。『山田風太郎ミステリー傑作選一 眼中の悪魔 本格篇』(光文社文庫)所収。親切だ。
第八章は、大陸での鉄道状況とからめて長々と当時の社会情勢が説明されている。漱石は1909年9月から10月にかけて、旧満州地方と朝鮮半島を旅している。紀行文『満韓ところどころ』を朝日新聞に3ヶ月にわたり連載した。きっかけは大学時代の友人中村是公が南満州鉄道(満鉄)総裁になり、漱石を呼んだ。中村是公は、「漱石の交友関係のうち異色の存在で、漱石をよく旅に連れ出した」という。東京大学予備門で二人は出会ったのだが、「文学など見向きもせずボートにあけくれる硬派」の是公と漱石は「不思議に気が合い、同じ下宿部屋で共同生活をしたほどだった」。面白い。
本書の著者牧村健一郎は『満韓ところどころ』と日記をもとに、漱石の足跡を克明にたどっている。
九月二日新橋駅十五時四〇分発の下関行き最急行一等寝台車で東京を出発。
大阪に朝六時二〇分着。九時小蒸気にて、当時花形の日満連絡船だった鉄嶺丸に乗り込む。
翌日(三日)七時、門司着。
六日、一七時大連港着。
一四日午前一一時、大連駅出発。是公が用意した特別車両だった。アメリカ製一等車両をさらに改良し、専用トイレ、洗面所、化粧室などがつく豪華さだった。
一四日一五時半、熊岳(ゆうがく)城駅着。
一六日、熊岳城から大石橋を経て営口へ。
一九日、湯崗子(とうこうし)停車場、一一時八分発。奉天へ。
二一日、奉天近くの撫順炭鉱を見学。夕、撫順を発ち夜奉天へ。奉天から夜行列車でハルビンへ。
二二日午前五時、長春着。満鉄の終着駅。ロシアの東清鉄道に乗り換え。
二二日一五時、ハルビン駅着。
二三日朝九時、ハルビン発ち、長春へ戻り一泊。翌日奉天へ。
二六日朝七時五五分、奉天発、安奉線で朝鮮国境の安東へ。夜、山間の小駅にある旅館泊。
二七日、朝から列車。一九半、安東着。
二八日昼、小蒸気で鴨緑江を渡り、対岸の新義州へ到着。同日午後、新義州駅発、二三時過ぎ、平壌着。
三〇日平壌一四時五一分発の列車で京城(現・ソウル)へ。南大門駅二二時二〇分着。当地に一〇日あまり滞在。
一〇月一三日午前九時、南大門発の急行で一気に半島を南下、草梁(釜山)に一八時二五分着。すぐ釜山港へ向かい、一九時発の連絡船に乗船。
一四日八時、下関に到着。その後、大阪、京都に立ち寄り、一〇月一七日朝、新橋停車場に帰り着いた。
P288には明治四五年六月の『列車時刻表』に「内地・朝鮮・満州連絡時刻表」が載っているとある。東京(新橋)からほぼ六二時間、二日半で満州の中心地・奉天に着く。
さらに奉天を二二時二五分に発つと長春に翌朝四時五〇分着、六時に長春を発すると哈爾賓(ハルビン)に一三時四五分に着く。
この時刻表にさらに付いている「哈爾賓以西」(シベリヤ鉄道経由の欧州路線)によれば、
木曜一四時三〇時、哈爾賓出発
金曜一〇時四〇分、満州里着
同 一一時五四分、シベリヤ鉄道発
土曜一八時 四分、イルクーツク着
同 一九時 、イルクーツク発
翌週金曜朝六時一〇分、莫斯科(モスクワ)着
同 一〇時四五分、莫斯科発
土曜一〇時五八分、ワルシャワ着
土曜二二時三八分、伯林(ベルリン)着
月曜一六時、 巴里(パリ)着
「いずれも時刻は現地時間か」、とある。
鉄道で欧亜が結ばれたということで、大正二年には、英国→カナダ→日本→シベリアの経路で世界一周周遊券と新橋からロンドン行きの切符が販売された。ちなみに弴ドンまでの料金、一等四三三円、二等二八六円。
巻末の「参考文献」もよかった。
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