[NO.1460] 私の「本」整理術/リテレール・ブックス8

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私の「本」整理術/リテレール・ブックス8
安原顯
メタローグ
1994年08月10日 第1刷
205頁
再読

1994年、ヤスケンさんの油がのっていた頃、雑誌『リテール』のシリーズとして出版された本。無類の本好き49人による蔵書整理について。長くて6頁、短ければ4頁とコンパクト。写真はいっさい無いのが残念。最後に、編者ヤスケンさんの文章も。どれも読みごたえあり。その毒気のようなものにあてられ、くらくらした。

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今や『リテール』自体が存在しないので、ネット上でも全部の目次が見られないので、あげることに。

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目次

西村孝次 つまらぬ本は近くの川で水葬にする
富士川英郎 転居のために売った本に、いまだに未練
杉浦明平 八十歳になったいまなお、増殖する本と雑誌
吉野俊彦 経済学と森鴎外の資料だけでも、増え続ける本たち
中村真一郎 読まぬまま死んで行く本を見上げ、慄然となる
護 雅夫 死ぬまで直らぬ蒐書癖と無精
佐伯彰一 妻君の好意・工夫に甘えた蒐書家の末路
塚本邦雄 出版社、作者のある限り、すべて空論・虚論
吉本隆明 いずれ物書き自身を廃棄処分にする時代がくるだろう
工藤幸雄 すべて自然に委ねる放任主義で
田中小実昌 階下から二階、二階から階下へと運ぶ雑誌の山
辻 邦生 図書整理術など不可能な、混沌、乱雑、無秩序、錯乱
奥野健男 死ぬまで読めそうもない本と義理本を処分すること
岩淵達治 捨て下手、溜め込み癖による壊滅的わが書斎
長野 敬 集積書架を設置する空間も予算もない
飯島耕一 人に話すほどの整理術などない
高橋英夫 整理を夢み、しかし実現する筈なしとの安心感
諸井 誠 さまざまな場所に分散したゆえの本探しの苦労
石井 宏 床を埋めつくし、足の踏み場もないわが書斎
山折哲雄 親衛隊のように陣取る未整理の本たち〔ほか〕
平川祐弘 自由に利用できる開架式図書館の充実を
石堂淑朗 戦時中の疎開のように、大井川上流の物置で眠る全集たち
宇波 彰 捨てたり売ったりせず、あるのまかせている
喜志哲雄 結局は、容赦なく捨てるしかない
内藤 誠 文庫化されたら買い替え、残りは実家へ送る
河村錠一郎 「古本屋の女房」になるつもりはなかったと言われ
天沢退二郎 整理し、捨てる時間がない
尾辻克彦 本の整理がいいかげんでも、人に迷惑はかからない
黒田恭一 雨空を見上げ、川の水位を気にする消防団員
目黒考二 究極の整理法、それは捨てるか処分すること
北中正和 必要な本以外、買わないこと
佐々木力 関連学問分野が多いが、まずは年代順に
高山 宏 図書館の五万数千冊のカード化に明け暮れた日々丘沢静也 個人的に送られる本の「善処」のむずかしさ
佐々木幹郎 床面積の高価な都会では、他人の本など置いてはおけぬ
湯浅博雄 本の山を眺め、手をこまねくのみ
鹿島 茂 貧乏の上で、本は黴のように増えてゆく
鷲田清一 物に囲まれた感覚は、服を着ている感覚と同じ
松枝 到 本好きの人生は、カタツムリのようなもの
佐山一郎 美意識優先の「カフェバー本棚」の失敗
風間賢二 処分せず、増えるにまかせるのみ
吉村和明 収納余地のない以上、根本的解決などあり得ない
飯沢耕太郎 完全に整理された状況は、モノ書きには大敵
沼野充義 冊数制限などなく、深夜まで開いている図書館を
中条省平 数年に一度の、「段ボール再調査」の苦痛と快楽
巽 孝之 批評としての複写
今福龍太 書庫を疑似的宇宙空間になぞらえる夢想
鈴木布美子 膨大な資料との肉体的格闘
大月隆寛 自宅、職場、書庫への使い勝手の不便な分散

編者から、ひと言


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それぞれのタイトルが面白い。全員が口をそろえたように、本の整理なんかできっこないよ、ということを、それぞれの言い方で表現している。しかし、どこか自嘲を交えながらも、自慢のただよっているところが見受けられて面白い。必ずといっていいほど、文中にさりげなく蔵書数の数字が出てきたり、どうせ自分の蔵書は駄本ばかりといっておきながら、洋書の初版を紹介していたりするケースがあるのだ。その稀覯書も、自分以外には専門古書店くらいしか、価値のわかる者はいないだろう、という気持ちがあったりする。

みんながみんな、含羞のひと。

寄稿しているメンバーが、アカデミックな傾向にある。 そうでないのは目黒孝次さんくらいかな。 世代も今とは違う。もっとも、以前集めた書斎関連本にあった戦前派はさすがにいないが。いや、そんなこともないな。ずらっと並んだ名前を見ていると、なるほど、これが1994年だったんだな、と思った。「 リテール・ブックス 」だし。

ここ最近、あふれている古書をめぐる書き手とは異なる。彼らは面白い読み物やサブカルっぽいものが中心だ。ところがこちらは、どちらかというと本は仕事のための資料であり、道具であるという位置づけである。文中に登場する、レコードやCD、カセットテープやVHS(古いなあ)も同様に、楽しむというよりも、評を書くための資料だったりする。

 西村孝次氏の文章がおかしかった。たまった本の整理法として3つ挙げている。1があげる。2がうる。そして3がすてる。以下抜粋します。

p8
 わたしは、すてるしかない本はうらずに川へ投げこむ。これを流し雛にちなんでひそかに流し本と名づけ、これ、地獄に堕ちて成仏せよ、と唱えつつ、近くの 恩田川といううすぎたない貧相な川で水葬にする。さきごろ、この儀式によって、いとも鄭重に葬ったのは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と永六輔『大往生』であった。もし万が一これらをすくい上げ乾かして読もうとするような、そんな不心得者がいたとしたら、やい、地獄に堕ちて鬼となりやがれ!

吉野俊彦氏の文章は、なつかしかった。これと同じ内容のものが収録されていた本を2冊持っていた記憶がある。つまり、これで3度目かと。

文章自体はまったく同じではなく、もっと詳細につづったものがあった。別棟に移動するときには、敷石をまたいで行くとか、ご自慢の歴代日銀調査局長が使った木製大机を落札したときの経緯とか。鴎外関連の書棚を紹介した文章は嬉しそうだったような。

吉野俊彦氏にとって、もっとも有名なフレーズ、我が家における「文学部の経済学部からの独立」 を目にしたときには、これで3度目! と思い返してしまった。

西村孝次氏の 近くの恩田川といううすぎたない貧相な川で水葬にする というところも、以前、目にしたことがあった。本の雑誌関連だったような。SNSで今、こんなことを書けば、大炎上しそうな。

吉村和明氏の 「深夜自然に本の山が崩れる音を聞きながら」との年賀状をくれた同僚のA先生。 というのも身につまされる。蔵書に埋もれ、死後の発見が遅れたという、草森紳一さんの『本が崩れる』は他人事ではないぞ。

特にアメリカへ留学してから、日本の図書館との違いを痛感したという文章を数名が書いていた。個人で本を買わずに済むという指摘。同じ本を所蔵しているアメリカの大学図書館の例も。教授が紹介はおろか、指定した本が1冊しかないようでは、レポートも書けやしないという意見に納得。