漱石の夏やすみ/房総紀行『木屑録』 高島俊男 朔北社 2000年02月10日 第1刷発行 329頁 再読 |
高島さんによるシリーズ本「お言葉ですが」中の一冊かと思いきや、まるで別ものだった。漱石が一高生だった23歳のときに、正岡子規へ宛てて書いた漢文による紀行文『木屑録(ぼくせつろく)』とそれにまつわるもろもろ。もちろん、著者は中国文学専門家なので、漢文と日本語との関連についても書いている。この部分がとても面白かった。
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日本人で、それなりの人物であれば、かつては漢詩くらい作れたものだ、などという話があった。ついでにいえば、明治以来の歴代首相経験者のなかで、だれまでならつくれたとか......。作家なら漱石まではできたけれど、芥川からあとは読めても作るのはむずかしくなったとか。
たしかに、漱石は若い頃、二松学舎に通ったことがある。すると、兄だったかに、「これからは西洋語の時代だ」と言われて、一高、東大へ入りなおしたという逸話もある。わが国では江戸時代まで、学問の主流は漢学だった。それが明治に入ると、一気に西洋語に取って代わられた。大学で教えるお抱え外国人は、講義をすべて自分の母国語でおこない、日本語ではやらない。そりゃあ、学生たちは外国語が達者になるはずだ。
お抱え外国人である小泉八雲ことラフカディオ・ハーンにかわって、東大英文におけるはじめての日本人講師となったのが、洋行帰りの漱石だった。世代交代がこうして行われたのだ。
本書では、そんな漱石が若くして書いた漢文をもとに(若いときのものだけに、ほころびもある)、日本における漢文の受容史といえる解説をしているところがよかった。本書の成立過程は「あとがき」に詳しい。もともと岩波の漱石全集月報用として書いた原稿がPR誌『図書』に載ってしまったので、べつにあらためて書いた文があったのだとか。
目次が出版社サイトにあった。リンクこちら。
「「漢文」について」と「日本人と文章」が眼目。わざわざ「木屑録訳」や「木屑録をよむ」「木屑録自筆稿本写真版」「木屑録活字版」まで付いているけれども。
「漢文」について から
三つにわけた 「漢文」の定義 が面白い。次に 訓読の歴史 。筆者のいうところの ちんぷんカンブン 。訓読文というものがいかにおかしなものであるか。大学入試用の模擬試験問題にあった漢文の例、なるほど。オネダイ先生の例もしかり。まさしく符牒なり。
日本人と文章 から
話しことばと書き言葉でいえば、話しことばは地域や時代によって変化するけれど、書き言葉は安定していて欲しい。なぜならば、書き言葉は知識人が普遍的に用いるためのものである。法令や判決、政治や軍事、国土内で共通に使えるものでなければならない。時間と空間を超えて共通に使える必要があるのだ。彼の国では二千年間、安定して使われてきた「文言(ぶんげん)」と呼ばれる文章がある(あった)。
それに対して日本では、それが見当たらない。なぜならば、漢文があるから(あったから)である。
著者の出身である東大の前進にあたる、「東京帝国大学漢文科が国家教学の総本山にしたてられた。」というところ。おやっと思った次第。なるほど。いわれてみれば確かにそうだ。
旧制中学における漢文の目的は、「教育勅語の精神をのべひろめることにある、と明確に規定された。」(P174) なるほど。
木屑録をよむ から
日本人の「漢詩」という、まことに奇怪なもの(頁239)。これも、ひとえに日本人が発音を知らないためである。
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痛罵の例
p151
以上、要するに子規の文章ははしにも棒にもかからない、ということである。
p164
頼山陽にとってあまり名誉な弁護ではない。荻生徂徠なら憤死するところだ。
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