[NO.1385] にすいです。/冲方丁対談集

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にすいです。/冲方丁対談集
冲方丁 著
角川書店 刊
2013年1月31日 初版発行

作家冲方丁さん、初の対談集です。対談の相手は、かわぐちかいじ、富野由悠季、井上雄彦、養老孟司、夢枕獏、伊坂幸太郎、天野喜孝、鈴木一義、中野美奈子、滝田洋二郎、山本淳子の11名。

冲方丁を読むのは、これが初ではなかったでしょうか。しかも、本書は小説でなくて対談集です。

富野由悠季氏の発言が目を引きました。なかなか過激な内容を含んでいます。

p30
飽きた、気に入らない、だけど書かなきゃいけない。そうなったときに自分を客観において、作品を眺めるんです。それは世の中に発表する作品として大事なプロセスだったと思います。好きな世界に没入していると視野が狭くなるし、書きすぎてしまう。さきほども言いましたが、世の中には作品を自分の日記にしてしまう人がいます。それは世の中に出すものではないでしょ?

世の中には作品を自分の日記にしてしまう人がい(るけれど)、それは世の中に出すものではないでしょ? こんなことを、さらっと言ってしまえる富野由悠季さん。作品とはなにか? たしかに、日記は世の中に出すものではありません。

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リアリズムでものが考えられなくなってくる サブカルが今やメインカルチャーになったことに対して、一番衝撃的だったのが麻生元首相の「犬夜叉」発言だと言う。

富野 サブカル、つまり卑下される媒体であったものが、そういう形で政治家にまで食い込んでいる。本当にものを考えられなくなった人たちが出現しているんだなと実感して、僕はとてもショックでした。アニメを見ているから、ものが考えられないということではありません。ものを考える深度の問題で、それが浅くなっている大人たちが出現している。それが恐いなと思ったんです。
冲方 ビジュアルの発達が人間の思考を活気づかせているんじゃないかという幻想を、僕らは一瞬抱いたんですけど、それは間違っていた?
富野 僕は、ビジュアルというのはあくまでも瞬間芸だと思う。瞬間の癒しであって、そのときだけの気持ちよさを提供する芸能なんですよ。芸能というものは生活を直接支えません。しかし、生活者の心性、心を支えてくれるものではある。ただ、決してそれ以上の機能はもっていないということを、今のビジュアル化社会は忘れているんじゃないですかね。(途中略)
富野 リアルな生活がつらすぎるから心のほうに行っちゃうというのはわかるけど、その行く末にはとんでもないものが待っている。具体的な例があるんです。
冲方 それはどういう未来ですか?
富野 全体主義。つまり、ナチス政権のようなものに行くんですよ。
富野 それについて、僕は今まで政治学者のハンナ・アーレントを切り口にしか語れなかったんだけど、最近もっとわかりやすい論法を見つけました。ピーター・ドラッカーです。(以下略)

本当にものを考えられなくなった人達(政治家)。(ものを考える)深度が浅くなっている大人たちが出現しているそれが恐いと富野さんはいいます。

ビジュアルはあくまでも瞬間芸瞬間の癒しであって、そのときだけの気持ちよさを提供する芸能である。芸能というものは生活を直接支えない生活者の心を支えてくれるものではあっても、決してそれ以上の機能はもっていないそのことを今のビジュアル化社会は忘れているんじゃないか

忘れているんじゃなくて、忘れたふりをして利用しているのです。

まさか、こんなところで ハンナ・アーレント の名前が飛び出すとは思いもしませんでした。ああ、驚いた(笑)。

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養老孟司氏との対談のなか、「封建的」という言葉のやりとりが面白かった。

p100
冲方 明治については何となくわかりますが、戦後の歴史教育で天皇制の時代はともかく、江戸時代を消す必然性はどこにあったんでしょうか?
養老 何といっても封建制ですね。当時、僕の学生時代のころは封建制が目の仇にされていて、「封建的」という言葉が批判の仕方として非常に頻繁に使われていましたね。左翼的というか戦後のいわゆる"新しい"考え方の常套句みたいなものでしたよ。
冲方 なるほど。でも江戸時代の封建制度と言っても、士農工商の身分制度を始め色々とありますよね。その批判にしても「封建的」というのは具体的にはどういう部分について言っているんでしょう。
養老 いちばんよく使われたのは家族制度(家制度)についてですね。もともと江戸時代の家父長制なんかを引き継いでいるわけだけど、これを「封建的」と称していた。
冲方 一族経営や財閥ということですか。
養老 いや、家のなかでもそうですね。当時は親孝行まで「封建的」と言われましたから。そう考えると、いまは「封建的」も死語になりましたね。そのころは本当によく使われた言葉ですけど。終戦後に日本国憲法の制度とともに民法も改正されて、家制度が廃止されたでしょう。その新しい民法の考え方が当たり前になったために「封建的」という言い方も消えていったんでしょうね。けっきょく現在に至るまで家制度のしがらみが強く残っているのが人間関係というか、世間との付き合いに依存している政治家とか医者ですね。政治家は世襲議員とも言われてよく批判されるけど、二代目、三代目が多いですよね。医者も町の開業医なんかは親から跡を継いだりする。それは完全に"家"が残っているんですよ。ただ、いまの若いひとには家制度と言ってもあまりピンとこないかもしれない。
冲方 いまのお話を聞いていてもまるでドラマの設定を聞いているようで、リアリティがないような気がしますね。

養老先生は1937年のお生まれ。対する冲方氏1977年生まれ。養老先生が「よくそのころは本当によく使われた言葉」とおっしゃっている「そのころ」というのが、いったいいつのことなのか。おそらく大学に勤めていたころではないでしょうか。造反有理とか。久々にすれ違っている対談を目にしました。まるでドラマの設定を聞いているようで、リアリティがないような気が するというところに、背筋がひやっとします。いわゆる「家制度」のことが冲方丁さんには理解できない、イメージできないのでしょう。かつて、山本夏彦翁が「解体」が完成するといったことです。

封建制が目の仇にされていた戦後のいわゆる"新しい"考え方の常套句みたいなものとして、「封建的」という言葉が批判の仕方として非常に頻繁に使われていた。

批判するとき というよりも 攻撃するとき と言い換えた方が的を射ているのではないでしょうか。昆虫好きな解剖学者の口から、こんな言葉を引き出すことができたということが新鮮でした。学生運動の季節を教員として過ごした養老先生。