[NO.1359] パブリックスクール/岩波新書

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パブリックスクール/岩波新書
新井潤美
岩波書店
2016年11月18日 第1刷発行

この正月はTV録画『名探偵ポワロ』を続けてみていた。で、本書の前書き「はじめに」の出だしが、このポワロものからの引用で始まる。

『ナイルに死す』から
「あなたは私の友人ヘイスティングズと同じネクタイをしていますね。」
「これはイートン・コレッジの卒業生のネクタイです」とファンソープは答えた。

なるほど、彼はイートン出身だったのだ。幾つかのポワロシリーズの中で、かつての学友とのやりとりが登場する。郊外の館に招待される場面も度々あった。

pⅴ
イギリスにおける階級観は、「ヒエラルキー制」、「三層制」、「二極制」が混在しており、簡単に定義することはきわめて難しいのだが、イギリスの文化における各階級のイメージをあえて単純化してまとめると、次のようになる(なお、あくまでも「イギリス文化の中での階級観」であるところから、階級の呼び名にはあえて日本語訳を使わずに、片仮名表記を使った)。
「アッパー・クラス」とは、伝統的に土地の収益によって暮らすことのできる貴族や地主階級を指す。「アッパー・ミドル・クラス」は聖職者、法律家、軍の士官、裕福な商人などの知的職業に就いているか、いわゆる「商売」で財を成した者を指す。「アッパーこミドル・クラス」は、長子相続制度のために家や財産を相続することができず、職に就くことを余儀なくされたアッパー・クラスの「長男ではない息子」を含むため、アッパー・クラスと同じく「紳士gentleman」であると見なされる。これらの階級の占める割合ほ、イギリス全体のごくわずかでしかない。パブリック・スクールは、これらの紳士のための教育機関として発展してきたのである。
一方、「ロウワー・ミドル・クラス」は、小規模の商人、職人、教育を受けて事務職に就くことができるようになったワーキング・クラスを指す。つまり、「アッパー・ミドル・クラス」と「ロウワー・ミドル・クラス」は同じく「ミドル・クラス」と呼ばれていても、実は全く違う階級であることがわかる。本書で見るように、パブリック・スクールは「アッパー・クラス」や「アッパー・ミドル・クラス」のための教育機関であったにもかかわらず、「ロウワー・ミドル・クラス」や「ワーキング・クラス」の人々にも大きな影響を与えてきた。

いわゆる「学校物語」と呼ばれる物語が19世紀から20世紀にかけて流行したのだという。そこから、「ロウワー・ミドル・クラス」や「ワーキング・クラス」の人々にも大きな影響を与えてきた。のだという。児童文学ではパブリックスクールを扱うのが当たり前であったとも。

階級制度は日本であってもしばらく前までは当たり前に残っていた。戦後になって戸籍簿への記述がなくなり、さらに「もはや戦後ではない」などといわれ、「一億総中流社会だ」などとおだてられた頃からうやむやにされただけだ。平成の今だってないわけではない。おおっぴらに口にしないだけであろう。

p15
アッパー・クラスの教育の変化
【略】医学の進歩とともに、子供の死亡率が減少し、一つの家族の子供の数が増えるにつれて、子供を全員家で教育することが困難になってきていた。またかつては、アッパー・クラスや裕福なアッパー・ミドル・クラスの家では、息子に家庭教師や従僕をつけ、フランスやイタリアなどのヨーロッパの国に旅に出し、そこで本場の美術、音楽、文学などに触れて教養をつけさせる、「グランド・ツアー」と呼ばれる教育の習慣があったが、十九世紀になると、フランスとの戦争やヨーロッパにおける政治状況などによって、それも難しくなっていった。
その結果アッパー・クラスでも、特に手がかかり、おとなしく家庭で教育を受けようとしないような息子を、学校に入れるという習慣が広まっていったのである。

本来は学校に入れず、それぞれの家で家庭教師を雇った。「グランド・ツアー」と呼ばれる教育の習慣! 息子に家庭教師や従僕をつけてフランスやイタリアに出し、本場の美術、音楽、文学などに触れて教養をつけさせる。やれやれ。
ロシアの小説に、似たような習慣が描かれていたが、イギリスも同様だったということか。いや、大英帝国の方が本家だった(笑)。

p92
侮辱に耐えるという成長
物語(アーノルド・ラン『ハロウ・スクールの生徒たちーーパブリック・スクール・ライフの物語』一九一三年)の終わり近くでは作者は、ピーターの成長を次のように分析する。
もし彼が家で家庭教師の教育を受けていたならば、愚かな自意識をもち、侮辱を予期したり我慢したりする能力がないまま成長し、知らない者たちの中で常に居心地の悪い思いをしたことだろう。しかしハロウは、彼の性格を強くした。最初の数年は肉体的な忍耐を学んだ。誰かから蹴られることを何とか我慢することを覚えた。しかし今学期はより良いものを学んだのだ。それは道徳的な自立だ。

ランは、ピーターが学んだ「道徳的な自立」とは、自分を嫌っている人たちがいても、平気でいること、聞こえよがしの嫌みを耳にしても動じないこと、悪意のまなざしが向けられても表情を変えないこと、だという。そして次のようにしめくくっている。

その後の人生でピーターは人に嫌われても平気であり、大きな侮辱にも動じない人間だという評判を得た。生まれつき繊細な少年がこのような評判を得ることができたのは、パブリック・スクールの訓練が道徳的価値観にもたらす驚くべき成果なのである。

英国の映画でもTYドラマでも、妙に屈折した人物描写が出てくることがあるが、こういった考え方が脈々と目に見えないところで流れていることが、下支えになっているのだろう。口の端を曲げたり目で合図したり......。

p172
オックスブリッジ入学をめざして
次章で見るように、グラマー・スクールはその後廃止され、コンプリヘンシヴ・スクールに移行するのだが、一部は残りつづけた。二○○四年に初演され、二年後に映画化されたアラン・ベネット(一九三四~ )の戯曲『ヒストリーボーイズ』の設定もグラマー・スクールである。これはオックスフォード大学とケンブリッジ大学入学をめざす、ワーキング・クラスとロウワー・ミドル・クラスの少年達とその教育を描いたものだが、【以下略】

p173
ここに登場するグラマー・スクールの少年たちは、『ジル』のジョン・ケンプのように、劣等感やおどおどしたところがなく、実に生き生きと、そして堂々としているが、彼らはオックスブリッジ合格に必要な「教養」をつめこまれる。彼らを刺激する、新しい歴史の先生は彼らに次のように言い放つ。

ローマに行ったことのある奴はいるか?
いないか? 君たちの競争相手の少年少女はローマに行ったことのある奴らだ。ローマやベニス、フィレンツェやペルージャに行っていて、そこで見たものについてお勉強している。だから奴らは宗教改革の直前のキリスト教会について答案を書くときに、キリストの包皮[ヨーロッパにはキリストの包皮なるものが保存されているところが多い]についてのくだらない知識が役に立つことを知っているんだ。そういう知識を使った奴らの答案は、君たちの答案と違って退屈じゃないんだよ。

ベネット自身は英国の北部の都市リーズの、ワーキング・クラスの出身だった。この作品は自分の勉強の経験をもとにして描かれている。初演と同時に台本が出版されたが、その際に書いた序文の中で、ベネットは自分の経験を次のように語っている。

私は自分が知っていることをすべてノートにとり、あらゆる種類の問題に備えて答を用意した。奇をてらった、意表をつくような引用と共に、四十か五十枚のカードに書き出し、どこに行くにも、そのカードを何枚かポケットに入れていたのだ。ロシア語の授業を受けながらこっそりと、または朝ケンブリッジの図書館に行く途中のバスの中で、少しでも時間があいたら、私はそのカードに書かれていることを暗記したのである。
入学試験の直前のクリスマス休みの時に、リーズ資料館で、雑誌『ホライゾン』が全巻揃っているのを発見した。この雑誌はシリル・コノリーが戦時中に編集していて、ほんの一、二年前に廃刊になったばかりだったが、私は聞いたことがなかったのである。それを読んで、私は、実存主義といった、当時流行していた最新の教養の分野の存在を初めて知ったのだった。それを完全に理解してはいなかったが、これらのこともまた私のカードに書き加えられ、入学試験の教養問題の材料となったのである。

パブリック・スクール生向けの入試問題
戦前までオックスフォード大学とケンブリッジ大学は、優等卒業学位、あるいはまったく学位をとる必要のないアッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスの子弟に、彼らが社交界に入るのに役立つ交友関係と知識を与えるという名目で、特に試験を課さずに入学させていた。しかし戦後、大学の数が増えて、大学教育が就職の条件になってくると、両大学とも志願者の数が急増し、そのような制度を保つことはできなくなった。
それでもオックスフォード大学とケンブリッジ大学は、他の大学のように、共通試験「一般教育証明書」のアドバンスト・レベルの成績と面接で学生を選ぶことをせずに、独自の入学試験を行なっていた。この入学試験の一部である教養問題では、個性的な発想と、幅広い知識が必要とされる。しかも、抽象的思考を奨励しない英国の、実用主義的な考え方に基づいて、何らかの説や論を展開する場合に、必ず文学書や歴史書からの引用でそれを裏付けることが要求されるのである。これは受験者の中に、そういった文学や歴史の素養がそれまでの教育と生活の中で自然に蓄積されているという前提に基づいて行なわれる試験であるわけだが、ベネットのようなワーキング・クラス出身の受験者は、彼が語るようなやり方で、「教養」を詰め込んでいかなければならなかったのである。ただし、この二つの大学が独自の入学試験を課していることには批判が集まり、一九八○年代半ばには共通試験と面接で入学できる制度が始められた。
『ヒストリーボーイズ』に見られるように、グラマー・スクールの制度そのものが廃止されても、パブリック・スクールと同様、「グラマー・スクール」のイメージはイギリスの文化において存在し続けるのである。

「文学と歴史の素養」を具体的にいえば、「ローマやベニス、フィレンツェやペルージャに行っていて、そこで見たものについてお勉強してい」て、「宗教改革の直前のキリスト教会について答案を書くときに、キリストの包皮についてのくだらない知識」を当たり前にもっているということだ。ミニ「グランド・ツアー」現代版といったところか。

「ラテン語」を至上とする教育がパブリックスクールでの王道であるという。かつての日本に当てはめると、それが「四書五経」だったのではないか。論語を素読し、漢詩を作ることが教養であった。それが明治時代に入り、西欧語にとってかわったものの、一気に消え去ったわけではなかった。横文字は苦手だが、四角な文字は得意だなだといった老人は戦前まで生きていた。