[NO.1310] 月の砂漠をさばさばと

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月の砂漠をさばさばと/新潮文庫
北村薫
おーなり由子
新潮社
平成14年07月01日 発行
173頁

 なんとものんびりした親子の会話が続く。平和な童話をまったり読んでいるかのよう。12話からなる掌編集。カラーで印刷されたおーなり由子さんのイラストがまたいい味わいを添えている。

 おそらく北村さんのことだから、このまますんなり終わらないかもしれないぞ。いや、日常を描いた掌編だから、毎日の生活が最終話でも普通に続いて、そのままぷつんと終わるのだろうなと考えていた。

 結果は、最終話も別段、特別な仕掛けが施されているわけでもなく終わった。ところが、問題は梨木香歩さんによる解説にあった。

P166
「名字(みょうじ)が替わって、くまさんはね、もう、暴れることができなくなったの?」。さあ、ここで勘のいい読者はどきっとする。さきちゃんとお母さんが、どういう経緯で母子家庭になったのか読者は知らされていない。

 最後まで小説を読んでも、どこにも経緯は書いてなかった。勘のよくない読者としては、おそらく病気で亡くなったのだろうか、なあんて薄ぼんやりと思いながら読み終えてしまっていた。

 さきちゃんからの質問に答えようとして、「しばらく考えて」しまったお母さんの作った卵が、この朝に限ってちょっと固くなってしまったこと。それと、さきちゃんが、(忙しく働いている)お母さんに、あえて答えを求めて(辛抱強く)待っていたところは、たしかに違和感があった。

 しかし、それ以上深く詰めて考えることはしなかった。どんどん先へとストーリーを追ってしまった。すでに答えは第一話に出ていたのだ。

 梨木さんは、こう指摘する。

P165
これは単にほわほわと、形なく崩れてゆくような「日常の心地よさ」を描いた作品ではない。

 ところが、こちらとしてはまさしく「ほわほわと、形なくくずれてゆくような「日常の心地よさ」を」感じただけで読み終わってしまった。

 さらに、梨木さんの解説文の末尾は、次のように終わっている。

P173
 日常は意識して守護されなければならない。例えばこういう物語で、幸福の在処(ありか)を再確認する。そういう時代に、私たちは生きている。

 これまで梨木香歩さんの作品では、『西の魔女が死んだ』しか読んだことがなかった。こんな社会性を含む発言をする作家だとは思っていなかった。

 このままだと梨木香歩論みたいになってしまう。まるで彼女の『月の沙漠をさばさばと』のために書いた解説が、『盤上の敵』に向けたものにみえてしまいそうなように。

 そもそも『月の沙漠をさばさばと』の最後には、「さきちゃんとお母さんのこと」という北村薫さんの文章が添えられている。そこに、きちんとこれを書いた理由が提示されている。「自分のいつか歩いた道を通って来る友達の、哀(かな)しみやおびえや喜びを見つめる目と、見つめられる小さなさきちゃんを書いてみたいと思」ったとある。

 本書のタイトルにもなった「月の沙漠をさばさばと」というおもしろい替え歌? が出てくる話、「さばのみそ煮」には、次のようなふたりの会話がある。

P85
「どうしたの」
「うん。あのね、さきが大きくなって、台所で、さばのみそ煮を作る時、今日のことを思い出すかな、って思ったの」
「――かもしれない」

少女マンガにありそう。大島弓子とか。いや、親子のこういった会話は、あるはずがないか。

【追記】
 『本と幸せ』(北村薫著/新潮社/2019年09月25日発行)に付いている自作朗読CDには、さばのみそ煮(「月の砂漠をさばさばと」)と白い本(「ヴェネツィア便り」)が収録されている。特に前者では北村さんの歌声までも聞くことができる。この中に出てくる「亡くなった御尊父が本当に歌ったというメロディー」は、ここに再現(再演?)されなかったなら、だれも聞くことはできなかったのだ。文字で歌詞を読むことはできても、かんじんのメロディーは北村薫さんの記憶の中にしか残されていないのだから。

P84
「一のお仕事、どんどれなりけりや」

最後の「や」が「や~~」のように民謡風に揺れながら伸ばすところ、妙に納得してしまった。和風といったらいいのだろうか。今ではめったに耳にしない調子だ。若者ではぴんとこないかもしれない。元慶応ボーイが歌ったのかな。歌ったんだろうなあ、当時は。