[NO.1290] 象が踏んでも/回送電車Ⅳ

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象が踏んでも/回送電車Ⅳ
堀江敏幸
中央公論新社
2011年5月25日 初版

シリーズの第4集。表紙カバーは北園克衛「プラスティック・ポエム」より(個人蔵、千葉市美術館協力)とある。

児童文学として有名な『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス著)について述べている中で、「読書」の説明が展開されていた。面白し。

p30
トムは、ハティとの出会いを機に、真夜中の周辺にあった時間について考えはじめ、おじさんにむかってこう語る。「ほんとうは、だれの時間もみんなおなじ大きな時間のなかの小さな部分だけど」「人間は、それぞれべつべつな時間をもっている」。だから「だれかよその人の時間のなかへ、過去のなかへあともどりしてはいっていくことができる」。さらに、「女の子の方がさきへすすんできて、ばくの時間のなかにはいることができる。ぼくの時間は、その女の子には未来に見えているんだけど、ぼくには現在なんだ」と(岩波少年文庫)。
やわらかい言葉で語られたこのトムの考察は、べつのなにかを連想させないだろうか。そう、読書だ。本を読むこと。二読三読し、言葉と言葉の、行と行の、頁と頁のあいだに隠れた十三時の扉を幾度もくぐり抜けて、「だれかよその人の時間のなか」に入り込むこと。それぞれがそれぞれの時間を持ち寄り、先んじたり遅れたりしながら、現在という時の流れに抵抗してほんとうの真夜中を生きるために、あたらしい本、あたらしい雑誌は、あたらしい真夜中の周辺を私たちにそっと指さしてくれる。

読書とは「だれかよその人の時間のなか」に入り込むこと だという。蓋し名言也。

日本経済新聞サイトに批評家 陣野俊史さんの書評が掲載されていて、読むことができます。リンク、こちら