[NO.1288] 遊園地の木馬

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遊園地の木馬
池内紀
みすず書房
1997年12月25日 印刷
1998年1月9日 発行

多忙なときほど本を読みたくなるもの。っということで、年度末進行の今、こともあろうに読書録を更新。

文章というものは、読んでいる最中の気分がよろしいことが目的としてある。エッセイがその最たるものだろう。だいたい2000円もの値段を出して、本書を購おうとする読者は、何を目的としているのだ? 書かれた内容、情報を得たいがために購入するとは考えられない。およそ、みすず書房から出ている白っぽい表紙は、物欲に駆られて、あるいは文体にひかれて、はたまた著者の人柄に魅せられて自分のものとするのではないか。

などといいながら、おやっと思ったフレーズは書き抜かなければ気が済まない。で、久々に手打ちでいくつかを抜き書き。

p182

昨日までになかった新しいもの。たしかにそうだとしても、それは必ずしも今日と結びつかない。明日に威力を発揮するもの、たとえそれが見込めるとしても、べつにいま、すぐに、しょいこむことはない。
錯覚されるようだが、過去と現在と未来とは同一線上にはないのである。少なくとも同じ次元にはない。三者はまったく別のものだ。現在は過去とも未来とも、本質的に何らかかわりがない。
過去は深遠で意味深いとしても、現在は浅薄で、しばしば無意味である。未来に美しい設計図は引けるかもしれないが、現在にはそのカケラすらない。多くの経験をつんだからといって、ちっとも聡明にならないのは、世の老人を見ればわかる。未来の夢が人を美しくしないのは、巷の青年や子女の生態からもあきらかだ。

下手な思い入れを人生に抱いてしまうと、現実性を帯びない、夢を追うだけの困った人になってしまう。対してリアリストはそうではない。「現在は浅薄で、しばしば無意味である。」という一文から、『意味という病』に振り回されてきた人類の歴史を思い起こす。
それと、末尾に例として挙げられた「老人」と「青年や子女」から、次の言葉を思い出した。子供しかるな来た道だ。年寄りわらうな行く道だ。三十年くらい昔、京都の化野念仏寺で目にした記憶があった。ネット検索すると、永六輔著『大往生』に紹介されているのだという。なんともはや。