「里」という思想/新潮選書 内山節 新潮社 2005年9月20日 発行 |
初出、『信濃毎日新聞』2000年1月~2002年3月まで。連載期間は、当初の予定では2001年12月までだったのを翌2002年3月まで延ばしてもらったのだという。理由はもちろん9.11テロが起きたことによるとのこと。
著者は不思議な方。表紙裏紹介に哲学専攻、立教大学大学院教授とある。ネットで見ると新宿高校卒業後、どこか学校への進学は書いてない。群馬県上野村にも家をもち、東京都往復しながら生活をしているのだとも。
内容はとてもわかりやすい。書かれてから10年間が経っていることもあって、現在の社会でよく目にしたり耳にすることが多い。裏表紙の惹句から引けば「グローバル化された社会へ警鐘を鳴らす、未来へ向けた哲学的論考」だそうだ。
裏表紙から続けて引用すると
世界を席巻したグローバリズムは、「ローカルであること」を次々に解体していった。たどりついた世界の中で、人は実体のある幸福を感じにくくなってきた。競争、発展、開発、科学や技術の進歩、合理的な認識と判断--私たちは今「近代」的なものに取り囲まれて暮らしている。本当に必要なものは手ごたえのある幸福感。そのために、人は「ローカルであること」を見直す必要があるのだ。
これでほぼ言い尽くしている。さすが新潮社。
もう少し具体的に記すと
それぞれの地域には、それぞれローカルな文化が平等に存在しているものである。ところが、グローバリズム本家のアメリカは先住民への侵略と破壊の上に国を作ったにもかかわらず、建国以前の北アメリカの歴史を拒否している。アメリカ先住民の歴史を、正当に位置づけていない。
p13
そのことによって、近代以前の歴史的伝統からの検証を受けない前進を、あるいは「近代」の暴走を可能にし、ためらいもなく自己を主張する「自由」を確立したのである。
もしもアメリカを「自由の祖国」と呼ぶなら、それはこのような意味に他ならない。近代以前の歴史を拒否したがゆえに、近代の原理だけで突っ走れる自由、過去との摩擦を前にして考える必要のない自由、そして自分たちが知っている近代の原理を正義だと信じられる自由。だから、アメリカは、経済、政治、軍事、情報などのすべてを駆使して、世界のアメリカ化を要求する。
恥ずかしさを失ったがゆえに手にした「自由」。今日のグローバル化の悲劇は、ここから発生する。
だが、それは、「歴史をもつ社会」「歴史と対話をしながら生きる人々のいる社会」との衝突を繰り返すことになるだろう。時には「経済戦争」「政治的緊張」というかたちをとって。ときには「文化摩擦」や「本物の戦争」というかたちをとって。途中略
旧ソ連邦が崩壊したとき、アメリカはためらいもなく、その攻撃対象を「歴史をもる社会」に対して定めるようになった。あるいはその「過去」を自分たちと同じように抹殺することを求めるようになったのである。
その先には、9.11テロが待っている。しかし、著者はひとこともイスラムという言葉を出してはいない。いや、「イスラム社会」としてp207に一カ所出てきた。これだけだった。
池澤夏樹がメール配信で何度もイスラム文化と近代西洋の違いを伝えたことを思い出す。たとえば、イスラムでは利息という考え方を認めないなどというような。
っと、鈍い頭でも、その理由がわかった。なぜ、イスラムに言及しなかったのか。
あたりまえ。9.11テロが起きたあと、『信濃毎日新聞』掲載が本来は12月までだったのを3月まで延長したのだった。「イスラム社会」の文言が出てきたのももちろん延長された期間での文章だった。イスラムについて多くの人たちが言及しだしたのは、その後のことだ。著者の文章があまりに9.11事件を見とおした指摘だったので、こちらの時間軸が錯綜してしまった。
ぜひ、その後の著者の考えを伺ってみたい。
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本書題名にある「里」=ローカルという記述を見て、納得した。地域を表すローカルを日本語である「里」に置き換えたところが面白い。
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