子どもは判ってくれない 内田樹 洋泉社 2003年10月9日 初版発行 2003年12月25日 第2刷発行 |
内田樹氏の特徴は武道からの影響だ。いや、もともとそういう資質があったから武道を習うのかもしれない。
著者のお得意なWEB上で発表した内容に手を加えてまとめたもの。「たいへんに長いまえがき」が面白かった。
オルテガを持ち出して、「国益」「国民」を説明しようとしている。「大衆」という言葉はここでは出てこないが、「大衆」について考えがすっきりした。(という気にさせられるところが、内田氏の本を読むことの面白さなのだ。)
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それはさておき、おやっと思ったところを幾つか書き抜いてみる。
まず、現代の若者と著者の世代との違いについて。
p040
私自身だって、同世代の「クリエイター」の動向はいつだって気にしていた。
途中略
しかし、「同世代」だけでなく、「今の自分と同年齢の昔の人」に対しても私は嫉妬や共感を覚えていた。
これがたぶん現代の若者の同世代参照傾向との大きな違いではないかと思う。
現代の若者は同世代としか比べようとしない。ところが、現代の若者は年々学力も知的好奇心も低下してきているのだという。その原因は偏差値にあるのだとも。短絡的過ぎないか?
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p175
一九六〇年代の終わりに、廣松渉はあと数年で日本は革命前夜的状況に突入するときっぱり「予言」し、革命戦線構築の急務であることを力説していた。
いったい何を根拠に廣松はこんな未来を予測できるのか、そのときの私にはうまく想像がつかなかった。そのあと廣松は東大の哲学科の教授になって、「世界の協同主観的存立構造」について深遠な思弁を展開していたけれど、あの「予言」の「おとしまえ」がどうなったのかは寡聞にして知らない。
私は別に廣松に文句があるわけではない(政治的主張はともかく、廣松の哲学を私は愛していた)。そうではなくて、廣松渉ほどの知性でさえ、「主観的願望」と「客観的情勢判断」を混同することがある、ということを指摘しておきたいだけである。
内田樹氏の口から「おとしまえ」と発せられると凄味を帯びた迫力がある。
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