絵本・落語長屋 文・西川清之 画・落合登 青蛙房 昭和42年5月20日 初版 平成2年9月20日 三版 |
本書成立のきっかけがあとがきにありましたので、ここに引用します。
楽屋で
そもそもの発端は、落合登画伯が、ありのすさびに安藤鶴大先輩の『落語国・紳士録』のなかの、何人かの紳士淑女の肖像画を描いたことに始まる。
たとえば、『寿限無』の長久命の長助であるとか、『りんきの人魂』の「有明の、アドッコイショ、ともす油は菜たねなり、喋がこがれて、逢いにくるゥ」と歌う、あの花里であるとか、「さんまは目黒にかぎる」赤井御門守さまであるとか。それも好きで、誰に見せようという訳でもなくコツコツと描いたその画が、素晴らしかった。生来のおッちょこちょいで野次馬精神旺盛なぼくは「こりゃオッチャン、黙って納(しま)っとく手はないよ」なんぞと言って、安藤先輩にお目にかけたり、青蛙房主人の岡本経一先輩の処に持って行ったりした結果が、これをまとめて絵本を作ろうじゃないかと言うことになり、ついては、ついでに五百字ぐらいの短文を、絵に添えよういう話になり、それも落合画伯に書いて貰えば一番いいと思っていたら、画伯と岡本先輩は「お前さんお書き」と言う。ぼくとしてはまさに瓢箪から駒が出た思いで、まあとにかく刺身のツマみたいなもんだから、何とかやれるだろう位に、たかをくくって引受けてしまったのだが、さあ取りかかってみると難行苦行の連続であった。
落語(はなし)のダイジェストだけを書く気は、もともと無い。一つ一つの話の、その話に出てくる人たちから受ける感銘を、それをぼくはぼくなりに書こうと思ったのだが、そうなると、ゆく手はるかに聳えているのは、安藤鶴夫著『落語国・紳士録』と野村無名庵著『落語通談』の二巨峰であった。とても、ぼくなんぞが此の二名著を越すことは出来ない。あれこれと考えて、大袈裟(オーヴァー)に言うと四、五日は大好きな御飯も恋しくないような状態がつづいたあとで、これはもう八方破れで行くより仕方がないと決心した。勝手なことを勝手に書こうという訳である。お叱りは百も承知で、ぼくの落語随想を、落合画伯の巧緻を極めた画の片隅みに、そっと置こうと決心したのである。
そうなれば姿勢としてほ、楽であった。きわめて無作意(アトランダム)に話をとりあげた。落合画伯ともお互いに細かい注文は付け合わないで、それぞれ、のんきにやろうじゃないかと言うことにした。従って落語に対しての、いっさいの体系付けのようなもの、意義付けのようなもののすべてをしなかった。だから当然絵本の落語として持って来いのものを--たとえば『擬宝珠』だとか『権助芝居』だとかetc--を出していないし、必ずしも落語として佳い出来のものばかりを選んでもいない。108編にしたのも、別に百八煩悩を気取ったわけではない。何となく、そうなったまでである。一つの話を二つに描いたのもあるし、春夏秋冬四季の風物に対しても無作為にならべた。無作為と言えば、たった一つ大きな作為が此の本に在る。それは出て来る落語の、時代的背景をすべて江戸末期にしたということ。本来ならば明治の匂いの濃い演出の「船徳』だとか『不動坊』だとかいう話も、敢えてチョンマゲをのせることによって、そこに画柄の面白さと、一冊の絵本としての統一をねらった。これは落合君とぼくの一致した意見でもあった。
と、いうような次第で出来上がったのが、この絵本である。
っというわけで、同じ噺が2度出てきたり。それはもう、のんびりと著者の意向をくんで、本書の中に没入するまでのこと。
画と短文の妙味に至福の時間を過ごすまで。
あとがきも、〈追記〉、さらに〈第三版あとがき〉と読むにつれ、既に亡くなってしまった落合画伯と、そしてさらに「口上」として前書きを書いた安藤鶴夫氏への愛慕を含む文章に、なんともいえない思いを残します。こういっちゃなんですが、その安鶴さんの文章の味のあることといったら。
こういう二人の<絵本・落語長屋>である。どうか、ごひいき、おひきたてのほどを願い上げ奉る。とそういう口上みたいなことを書いている、てめえはいったい、どこのどいつだ、とおッしゃるか。手前、もと、青蛙房・版<落語国・紳士録>の編纂に参じて、ひと、あんつるなんどと申せども、それは仮りの名、姓は安藤、名は鶴夫、生来、<落語>とは切れないえにしの、いま、<落語長屋>の用心棒。河内山の宗俊とは、まったく、緑もゆかりもないくりくり坊主でぇす。
昭和42年春 安藤鶴夫
〉河内山の宗俊とは、まったく、緑もゆかりもないくりくり坊主でぇす。
なんて、まったくなめてます。たまりません。
奥付の検印カードがいい。4802という番号入り。
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