[NO.952] 解体新著

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解体新著
百目鬼恭三郎
文藝春秋
平成4年1月20日 第1刷
平成4年2月15日 第2刷

 歯に衣着せぬという言葉がありますが、正にその通り。一刀両断。こりゃあなんともはや。

p18
 日本はいまや経済的には超大国になっているのに、外国人崇拝の風習は一向に改まらないようだ。何の取り柄(え)もない平凡な日本文化論も、著者が外国人となると、わけもなく感心されるから、外国人にとって日本はさぞかし住みよい国にちがいない。もっとも、これは、片言をしゃべるオウムがめずらしがられるようなものかもしれず、感心されて得意になる外国人はバカだということになる。
 これは『百代の過客』(D・キーン著)の冒頭。つづけて曰く
 読売文学賞と日本文学賞という二大文学賞を受賞した、ドナルド・キーン『百代の過客』も、もしこれが日本人の著作だったら、賞は愚か、活字にすることさえむずかしかったろう。
だそうです。

p33
 私が文芸批評や人文・社会科学の本を積極的に読む気にならないのは、それらの多くが私にとって難解だからである。彼らの使っている用語がわからないということもあるが、仮り(ママ)にその用語の意味がわかったとしても、著者がこの文章で何をいおうとしているのか、文意をつかめない場合が多い。そして、やっとその個所の文意を汲みとったものの、こんどは前後との脈絡がつかめない、といった具合なのだ。
 最近、社会人類学者小松和彦の『異邦人』が民族学界で話題になっていると聞いて読んでみたが、やはり何回で往生した。

(途中略)
 が、そのあとの「ある意味で、民族社会における"歴史的事実"としての『異人殺し』伝承は、日本民族社会における"歴史学(「学」に傍点)的事実"としての『異人殺し』を告白しているのだといえるかもしれない」という個所になると、もうついていけない。むろん、専門家はこれで十分意味がわかるにちかいない。意味のわからないものを賞めたり、話題にするはずはないからだ。
 また、こういう文体が、この著者に固有ではなく、知識階層の著作に共通していることも承知している。が、私には、この文体で、述べようとしている内容を明確に伝達できる、ということが不思議でならない。書くほうも、ホントにわかっているのか、という疑いをぬぐいきれないのである。

 当時流行ったニューアカなんぞ、なんぼのもの、といったところか。

p45
 マスコミがはやしたてる特異な教育に、いつも私は懐疑的でいる。無着成恭の山びこ学校、斎藤喜博の島小の授業など、世に名をはせた特異教育は少なくないが、いったいこれらはどれだけ教育の実をあげ得たであろうか。教師の思うままに引き回された生徒は、実は、実験の犠牲者ではなかったか、という疑いをぬぐいきれないのだ。

p79
 私は、記号論とかポスト構造主義といった先端的な現代思想を武器にして、一見精緻らしく仕立てられた文学論は、めったに読まないことにしている。何度読み返してもわからないのと、どうせこれらは対象作品の本質をつかんではいまい、と思われるからだ。理解できないくせにどうしてそんなことがいえるか、と反問されるかもしれないが、文学の本質などというものが彼らの思考の埒外にある、ということを思い出してほしい。

p106
 むろん時代の違いのせいであろう。が、そればかりではなく、二十歳のときけんかで留置場に入れられた、などと書いている著者が、色々な面で私にとって異人種というせいもあるような気がする。
 この本で知る限り、著者の読書が貧しく感じられるのも、そこから来る錯覚であろうか。あるいは、著者のような活字中毒の自覚者は、読書に関しては韜晦趣味があって、つまらぬ本ばかり並べてみせたがるから、そのせいかもしれない。
(『活字のサーカス』椎名誠)

p164
 ――という話を読んで有名人諸氏がどうして泣いたのか、その理由が私にはさっぱりわからないのである。
 心温まる人情話というには、この親子の言動が臭すぎる。スーパーでそば玉を買えば優に三杯分は食べられるのに、何もそば屋で一杯だけ注文することはないだろう、と、タモリは批判したそうだが、その通りだ。これでは自分たちの貧窮をひけらかしているのか、母親が経済的にだらしないのか、のどちらかとしか思えない。他に客のいない店で親子が苦労話をするというのも、構成が稚拙というよりは、店の夫婦に聞こえよがしの段取り芝居に見えて、嫌みでさえある。
 こんな臭い人情話に泣くようになったとは、それほど現代は人情が地に墜ちたことを意味しよう。欧陽修ならずとも「嗚呼!」と嘆息したくなる。
(『栗良平作品集第2集』栗っ子の会)

p172
 私は文学評論の類を読むのが昔から苦手だった。正直いって何をいおうとしているのかがすんなりわかった場合はほとんどないし、せっかく苦労して大要をつかんでも、その論旨は首肯しがたいものが多かったからである。これでは骨折り損のくたびれもうけではないか。
 そんなわけで、私はもう随分しばらく文学評論を読むのをやめていたのだが、いま久しぶりに江藤淳『昭和の文人』を読んでみての感想も、やはり昔とおなじに徒労の一語に尽きる、というほかはないようだ。


p255
 大学時代の友人、篠田一士が急逝した。途中略
 また、マスコミにしてみれば、彼を失ったということは、海外の現代文学のインデックスをなくしたようなものだろう。個々の文学圏についての情報・知識なら、それぞれの専門研究者から得られる。が、それらを世界的な視野の中で評価できる批評家というと、日本では彼ぐらいしかいないのである。イタリアの詩人クァジモドが、あるいはユーゴの作家アンドリッチが、ノーベル文学賞を受賞したというニュースが入ってくると、マスコミはまず篠田に電話を入れるというのが長年の習慣になっていたのだ。
 どちらかというと、国漢系統が主かと思いきや、こうした文章に出会うと、あれま。