[NO.947] 僕の読書感想文

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僕の読書感想文
近田春夫
国書刊行会
2008年12月12日 初版第1刷発行

 実に軽い内容。この方の週刊文春連載『考えるヒット』が、よかっただけに肩すかしをくった感。

 もともと雑誌『家庭画報』連載内容をまとめたものとのこと。

 この本の中で度々取り上げられた作家にカートヴォネガットとフィリップ・K・ディックがいます。その中で、いくつか抜粋。

p375
 ところで。そんな訳で、読み始めたときは久しぶりのヴォネガット節が懐かしくて、いいペースだったのに、途中から何となく距離のようなものを感じるようになってしまった。
として、あとにこう考察を続けます。
どこか自分とズレてきている。
 たとえばヴォネガットは、墓碑銘にこう刻んでほしい、という。
《彼にとって、上が存在することの証明は音楽ひとつで十分《であった》
 素晴らしいと思う。けれども今、そういわれても単に気の利いたアメリカンジョークだ。あるいは《外国人がわれわれを愛してくれているのはジャズのおかげだ》と。それも正しいのかも知れないが、何か、かつてほどコトバがありがたく響いてこないのだ。
 そんなことを考えながら頁をめくっているうちにこんなくだりに行きついた。
《わたしはおもしろいことの言える人間だったのに、もう言えなくなってしまった。〈中略〉腹立たしいことがあまりにも多くて、笑いでは対処しきれなくなってしまったからだ。》
 つまりそれが何を意味するのか。
 カート・ヴォネガットは本当に坑内のカナリヤだったということである。

以下略
 たしかに、近頃カート・ヴォネガットを読んでいて、かつてほど面白くは感じないことが多くなってきました。その原因はこれだったのか、とひとりで納得。それにしても、かつて来日した折、井上ひさし氏との対談の中で、自分は坑内のカナリヤであると発言していたことを思い出します。

p185
 ディックに何より惹かれるのは、その描く世界の質感が独特だからである。それはSFだろうとノンSFの作品だろうと変らない。何かがズレている。ひとつには登場人物達の思考や行動がビミョーに神経的に病んでいるように思えることが、その原因だろうが、何ともいえず深刻なユーモアがどの作品にもルーズに空気のようにただよっているのだ。
 それとSFでは一種エセ科学的なもっともらしさというものが必ず求められる訳だが、ディックはそっち方面のセンスがでたらめで、この本にしても、そんなイージーな作り方の模造人間など、誰が見たって本物の人間に思えるハズもないシロモノが、堂々と食事をしたり演説をしたりするのである。
 そのバカバカしさに、妙にシリアスなテーマがからむ。しかもバランス悪く。それでいつ読んでも何を読んでも、しっくりと来ない感じが残る、そのしっくり来ない感じのなかに、他のSF作家には絶対に出し得ない味があるのだと思う。
 ディックといえば映画『ブレードランナ1』を思い起こす人も多いと思うが、あの景色と本で読むディック・ワールドは全く別物である。本当はもっとへンテコリンでカッコ悪い。まだ誰もこの景色を映像には出来ていない。                        (02・9)

 これにも、妙に納得させられたのはなぜなのでしょう。

 ◆ ◆

 それにしても、どうして国書刊行会からの出版なんだあ?