月島物語/集英社文庫 四方田犬彦 集英社 1999年5月25日 第1刷 |
奥付に寄れば、この作品は、一九九二年七月、集英社から刊行されました。とのこと。本書中、月島に住んで早五年になるとの記述。そして、『月島物語』(単行本)を書き上げて二年後、イタリアに映画の勉強のため留学したのだそうです。さて、著者お住まいになっていた長屋の現在や如何に。
お隣の佃島と月島の違いになるほどと納得。月島は明治になってから埋め立てられたので、江戸時代には海の中。
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もっとも、だからといってわたしが排他意識に近いものを身に感じたかというとその逆で、住みだしてしばらくたって発見したのは、月島が予想外に個人主義の通用する生活空間だという事実だった。なるほどここにはわたしが少年時代をすごした杉並区や武蔵野市の住宅地に見られる、隣人の社会的地位と風評をめぐる陰湿な好奇心のかわりに、何でも路上であけすけにお喋りの種に仕立てあげる開放的な気分がある。蕎麦を茄(ゆ)でたものの山葵(わさび)が切れていれば、隣家に気楽に借りにいくこともできる。だが一方で、気さくな世間づきあいを別にすればけっして他人様の生活の奥深くにまでは干渉しないという暗黙の取り決めが存在している点も本当なのだ。住みはじめて一ヶ月ほどがたつと、わたしは自然と「先生」と呼ばれるようになった。先生、お留守だったので宅配便、預かっときましたよ。先生、これ中落ちだけど、よかったら食べてくださいな。先生みたいな人が住みだすと、ここらも少しはマシになるかもってこないだも話してたんですよ......。こうしてわたしは銭湯での老人どうしの口喧嘩を仲裁するまでになったのである。
住んだのが隣の佃島だったとしたら、あるいはすべてはこんなふうに進展しなかったかもしれない、と思う。徳川幕府成立時より強い共同体意識に支えられた佃島では、住民のほとんどが親戚であり、伝え聞くところでは銭湯で坐る場所も決まっているという。こうした場所に異邦人が参入し日常生活を営むためには、一定の緊張した自覚が必要とされるだろう。月島に住むにあたってもっとも気にかかっていたのはそうした事態が生じることだった。幸いにもそれは杞憂(きゆう)に終わった。わたしはときに仕事の内容を聞かれたりすることはあれ、きわめて気楽な長屋の生活を送っている。ここに佃島とは異なった、月島の独特の雰囲気がある。のちに魚河岸に重点が移ったが、造船所と町工場によって発展したこの町では、その由来を尋ねれば住民の誰もが他所者(よそもの)なのであって、彼らは傍の佃島をつねに意識しながら緩やかにして柔軟性に富んだ共同体意識を築きあげてきたのだ。
それにしても伝え聞くところでは銭湯で坐る場所も決まっているというというのはすごい。とても引っ越しては行けそうにない。
吉本隆明の章もあり。月島生まれの吉本さん。アーカイブス2へ
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