[NO.889] にっちもさっちも/人生は五十一から

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にっちもさっちも/人生は五十一から
小林信彦
文藝春秋社
平成15年4月25日 第1刷

 人生は五十一からシリーズの中、未読だったもの。信彦節がいいですねえ。このごろ顔が売れてきたといっていいのか、銀行の窓口で文春のコラムを書いている人として認識され出したとか。

 弟君泰彦氏による特に裏表紙の似顔絵がよろし。

p15
 六〇年安保の次は東京オリンピックとくる。年表を見ながら喋っているのかな。「1963年のルイジアナ・ママ」を書いた亀和田武さんがきいていたら、怒るでしょう。

p21
 カリスマ志ん朝亡きあと、ぼくたちの仲間が、あとはこの人だけ、とまで語り合っているのが、柳家小三治である。
 ぼくは一面識もないのだが、高座での姿を拝見する限り、とても屈折した人のように見える。
中略
 昨年末に、ようやく小三治著の「落語家論」(新しい芸能研究室)を入手し、いっきに読んだ。
中略
 新劇の役者になりたかったのに、噺家になり、同世代の志ん朝という〈生まれながら噺家〉が持つ〈何か〉を感じた時、噺家になるための努力をやめた。努力しても無駄、無愛想でどこが悪い、と開き直る形での自己確立がとても興味深い。終わりに付いている〈鼻濁音〉の話も面白かったけれども。


p33
〈歳で酒が弱くなる〉というが、おかしなことに、アルコールに弱いぼくでも、二十代の時は、銀座のバーから二次会、三次会と、当時ギンギラに肥っていた植草甚一さんあたりを接待していたのである。中野翠さんが、中年の植草さんを見て、〈ロドリゲス〉と表現していたが、当時の植草さんは酒で荒れていて、映画雑誌の編集者たちがシャットアウトし、仕方なくジャズのライターに転身していた。

p34
 閑話休題(それはさておき)――

p78
 ぼくは弱気になっている。
 むかし、ある作家に、きみが本気でやったら、ウディ・アレンのような一人三役を軽くこなせるだろうと言われたことがあったからである。
 もちろん、そんなことはありえないのだが、活字が今のように読まれなくなる事態だけは予測できなかった。将来(さき)のことはわからないと、つくづく思う。現代は映像が中心だ。


p110
 文庫の解説を書くために、大井氏は「近代文学」グループの編集したのと、もう一つの文学者辞典のページをめくって驚いた。〈し〉の項目に獅子文六がなく、〈い〉の項目に岩田豊雄がない!
〈もともと私はかかる辞典の類を一種のアルバイトないし失業救済事業以上の何物でもないと思ったが......〉
〈スキヤキをご馳走(ちそう)してくれた人々や、一緒に研究会をやったことのある人のことは詳(くわ)しすぎるほど、書いてあるのだが、現役中の現役である獅子文六、がないのだね。たいへんなズレかたで、ああいうアルバイトは人を誤(あやま)ると再認識したよ。私は大衆に追従(ついしょう)せぬ貴族主義者をもって任じているが、このズレにおいては、ジャーナリズムならびに大衆の趣向の方を信用するのだ。〉


p123
 しかし、名作というわけでもないその映画の公開は難航し、五十嵐君はATG(芸術映画封切の系列)で公開という奇手に出た。「ボギー! 俺も男だ」という邦題である。
 ぼくは〈ボギー〉というボガートの(仲間うちでの)愛称を使うのに反対だった。たいいち、気障(きざ)ではないか。しかし、どうやら、五十嵐君はこのコトバが使いたかったらしく、そのために努力したのだった。


p151
 ぼくは一面識しかなかったのだが、ある日、電話がかかってきて、「雑誌を出したいのだけど、明日の昼にうち(「うち」に傍点)にきてもらえないかな」と言われた。
 三十を過ぎたばかりのぼくは、近くの四谷左門町に住んでいたから、断るわけにいかない。
 盛夏だった。
 安藤さんのお宅は趣味の良い日本家屋で、落語を論じる方々が集まった。それらの人々の中で、もっとも若いのが江國滋さんとぼくで、江國さんは安藤さんのあとつぎになる人だと、ぼくはみていた。


p217
 美濃部美津子さんの「三人噺(ばなし)」(扶桑社)は、古今亭志ん生こと美濃部孝蔵の長女による一家の歴史である。

p261
あとがき
 この本のゲラ刷りを読みかえしていて、いやー、これはクロニクル(年代記)だなあ、とつくづく思いました。
 映画、ラジオ、本、人物の感想を書いていても、つい〈時代〉が滲(にじ)み出てしまいます。

 これをクロニクルと考えれば、
 1 『人生は五十一から』(文春文庫)
 2 『最良の日、最悪の自』(文春文庫'03年5月刊)
 3 『出会いがしらのハッピー・デイズ』(文藝春秋)
 4 『物情騒然(ぶつじょうそうぜん)』(文藝春秋)
 5 『にっちもさっちも』(文藝春秋)
 ――と、一九九八年から二〇〇二年までを、一年ごとに描いたことになります。
 それをエッセイ、コラムの形で続けているのが当世風ですが、まあ、いいのではないか、とおもっているしだいです。