内田魯庵集/明治文學全集24 内田魯庵 筑摩書房 1978年3月30日 初版第1刷發行 1989年2月20日 初版第4刷發行 |
旧字旧かな。巻末解題は稲垣達郎氏。目次を掲載しているサイトあり。
「付録月報93」冒頭にあるお弟子さん木村毅氏の文章が面白い。
内田魯庵翁の思出 木村毅
魯庵翁は慶應四年(明治元年)四月、江戸最後の月がちょうど閏で、連天の霖雨の中に官軍が攻めこみごった返している最中に、御家人の子として生れた。その前の年尾崎紅葉、幸田露伴、夏目漱石がうまれ、同じ年に山田美妙がうまれ、そして四年後に樋口一葉がうまれ、目白押しに文壇に押し出た江戸ッ子仲間である。その中で一ばんハイカラなのは魯庵である。少年時代から、着ている毛絲のシャツは、最上等の舶来品であった。洋楽がわかり、洋畫を解し、冩眞機にも早くから親しみ、通人と云っても、江戸趣味でなく、西洋がかった通人だった。
したがって食通ではあっても、雲丹や、このわたのような日本趣味なものより、バタやチーズや洋酒をあげつろうた。もっとも自分では酒はのめなかった。好きなのは牛肉で、その家に行って食事時になると、出される膳には、必ず、薄醤油につけて金網焼きにした牛肉が皿にのっていた。それが一ばんの好物だった。以下略
その中で一ばんハイカラなのは魯庵である。いいフレーズです。
最初に書いた小説として有名な「くれの廿八日」、読後感は会話文の新鮮さ。どこまで当時の話し言葉を再現しているのか。ふりがなから読み取れる当時の言葉遣いの妙。
p8下 妻のお吉が使用人のお銀さんに愚痴を言っている内容を抜粋します。
『爾(さ)うなるンだとも、解つてるサ。妾(あたし)だツてお前(まい)、馬鹿は馬鹿なりに了簡があるからネ、旦那様が學者だからツて静江さんが教師さんだからツてさうさう欺騙(ごまか)されてばかしゐないサ。けれどもお前、お前は知るまいけれど、旦那様は新聞や雑誌へ書いたり社の翻譯をしたりした報酬(もの)を悉皆(みんな)静江さんに入上(いりあ)げツちまうンだよ。今話した金時計だツて中々廉(やす)かアないやネ。寶石の指環だの繻珍の帯だのツて御自分は着物一枚新調(こしら)いないで静江さんにお金子(かね)を注込(つぎこ)むツてのは何かお前、道理(いはく)がなくちやア......なんぼ死んだお友達の妹だからツて、他人ぢやないか。私通(わけ)がなくちやア如斯(あア)も身を入れて世話ア出來ないやネ。』
p17「其三」最後の場面、主人公純之助と妻お吉の喧嘩には笑えました。浮かんだ言葉は『滑稽劇(コメヂイ)だナア!』(p38上L25)。井上ひさしやチェーホフ劇のドダバタ場面を連想。多くの洋物に目を通していた魯庵氏のこと、おそらく向こうのそうした作品場面を手本にしていたのではないでしょうか。
二人がもみ合い、トランプが飛び散ります。
『お放しツたら、放さないか、』とお吉は涙聲を甲走(かんばし)らし、身を悶(もが)いて振放さうとして、力が餘つて悸々(よろよろ)と尻持(しりもち)突いた。其途端に純之助が置忘れた骨牌(かるた)を握(つか)むや否(いな)、覘(ねらひ)も定めず發矢(はつし)と投付けると、恰(あたか)も逃損(にげそく)なツた静江の肩に衝(あた)つて赤いと黒いとが八方に碎けた、ジヤツク奴(め)は天井に飛上り、クヰーン殿下は障子の桁(さん)に蹈舞(たふぶ)し給ひて、スペードのキング先生は宙返りをして翩々(ひらひら)とお吉が髷(まげ)の上に落ちた。
カヽオの茶碗が轉がる、玉蜀黍(たうもろこし)の煎つたのが覆(こぼ)れる、烟草(たばこ)の箱が蹴飛(けと)ばされる、長羅苧(ながらを)の姻管(きせる)が翻飛(はねと)ばされる、火鉢に掛けた湯沸(ゆわかし)が轉がる、灰神欒(はいかぐら)が立つ、蒲團が濡れる、濱が烏鷺(うろ)々々する、座敷はドタバタ狼籍して橡前(えんさき)にはブルドツグが身構へして呻(うな)り出す、此混雜の中(うち)に静江と純之助とは何時(いつ)か見えなくなツて、罵詈(ばり)の聲を絶(た)たで暴廻(あれまは)るお吉は無理やりに漸(やつ)と蓐(とこ)の上に据へられた。
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