[NO.787] 古書/日本の名随筆 別冊12

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古書/日本の名随筆 別冊12
紀田順一郎 編
作品社
1992年2月25日 第1刷発行
1998年5月30日 第7刷発行

 なんとまあ、罪な本であることか。深みにはまって抜けられぬ。金額だけでなく、費やす労力とそのための時間たるや厖大なもの。しかも、当人にとっては満足の極み。対する、周りのものにとってはハタ迷惑以外の何ものでもなし。
 「古書」。これほどの道楽は......、このあたりでやめておきましょう。

 ネットであふれ、書籍化されているような最近の新しい方々による古本紹介ばかり読んでいたので、一昔前までこの分野で活躍しておられた人たちの文章には懐かしさを覚えました。さらに明治・大正の頃の文章、魅力的ですねえ。
 いわゆる古書ブームなるもの、何度かその波があったようですが、こういうものは周期的に何度か繰り返しているのでしょう。

 本書に収録される以前に読んでいたものも大分あり、懐かしさに浸りつつ再読。中身がわかっていても、こと、古書に関する文章は何度でも読んでしまいます。

 勝本清一郎氏の「蔵書帰る」、言葉を失う内容。

 おやっと思ったのが、p238編者紀田順一郎氏が「本をめぐる本の話 」で紹介している『宝石本わすれな草』。どうやら正しい書名は『宝石本わすれなぐさ』のようです。たったこれだけの違いでも、ネット検索ではヒットが変わってしまいます。あの紀田氏が、どうしたのかな。

■「古本屋彷徨」杉浦明平
p28
 大学に入ったころ、どういう関係でか大阪から古書目録を送ってもらうようになった。あるいは大阪へ旅行したさい、アララギの中島栄一に案内されて薄暗い町をぐるぐる廻ってのぞいた狭い古本屋がカズオ書店という店で、そこの目録を中島が送ってくれたのがきっかけだったかもしれない。そのほか津田書店、高尾書店からも目録がきた。どれも東京の値段とくらべると格段に安かったが、カズオ書店は詩歌書が多かったので一番たのしみだった。この店の目録で手に入れた「紫」「片袖第一集」など今でもわたしの書庫に残っている。が、そのころ関西地方を襲った室戸台風で水びたしになったせいか、どちらもややしけている。
 この店のことを立原に教えたので立原も目録の着くたびによく注文したらしい。ところが高村光太郎の「道程」を注文したとき、さいわいにも手に入ったものの「立原様からも御注文がありましたので、二人でお話し合い下さい」という手紙が同封してあった。立原のところへも同じようなハガキが屈いたと、立原がわたしの下宿へ勢いよくやって来て、「イワン・イワノウィッチ(立原がふざけてわたしを呼ぶ名)よ、詩集『道程』はミッチー立原にゆずれかし」といったが、わたしは「ゆずらぬ」と争って、どういう方法できめたか、最後はわたしのものと決定した。立原が泣きべそをかいたから、いっしょに下宿を出て、落第横丁のぺリカン食堂でホットドッグか何かをおごることで一件落着となった。
 立原は、土井晩翠をきらったし、河井酔者の詩集にも興味をもたなかったし、明治二十年前後の最初期の新体詩集にも関心がなかったが、わたしはそういうものも集めた。立原の私淑したのは蒲原有明だったようにおもうが、有明の四冊の詩集のうち「革わかば」「春鳥集」「有明集」は立原もわたしも二人とも手に入れたけれど、第二詩集「独絃哀歌」だけは、玄誠堂の目録にべらぼうな値段で一度載ったきり、古書目録でもお目にかかれなかった。立原は 「『独絃哀歌』が安く出て来ないかなあ。じつは(と声をひそめるように)『独絃哀歌』が東大図書館にあるんだよ。鴎外の蔵書だったんだ。あの詩集を盗み出す魔法はないものか」といっていた。ついに二人とも「独絃哀歌」を手に入れることができないでしまった。
 戦後、わたしは大阪の高尾書店の目録に「独絃哀歌」がそんなに高くない値で載っているのを見て、是が非でもというほどではなく、むかしの思い出のために注文のハガキを出すと.思いがけず、「独絃哀歌」が郵送されてきた。立原が生きていたら、見せびらかしてやるのに、むかし「道程」をほしがったようにほしがったら、今度はゆずってやってもよいのに、と思った。

 初めて読んだのは何年前のことだったか。

■あとがき 紀田順一郎
p242
(学生時代には)お茶の水で下車。あとは駿河台から神保町までを雨の日も風の日も歩いたものである。
 そんなとき、昭和初期に流行ったという「神田小唄」という歌が、自然に口をついて出た。時雨音羽作詞の心はずむようなリズムで、「肩で風切る学生さんに......」にはじまり、「屋並屋並に金文字飾り、本にいわせる神田~~」で終わる、まさに学生愛書家向けの讃歌に相違なかった。私は自分の人生を繰り返したいと思うほど阿呆ではないが、あの高揚感だけはもう一度体験し直してみたいような気がする。
 さきごろ物故したゲーテ記念館の創立者粉川忠氏は、毎日のゲーテ収集行に道玄坂を降るとき、「今日こそはすばらしいゲーテ文献に出会えるに相違ない」と、思わず足どりもはずむのを覚えたと語ってくれたことがある。そのとき、私はゆくりなくもわが青春の神保町通いを思いうかべた。
 以来、三十幾星霜。私はいまだに万年書生として古書街を彷復している。汚れた鞄を提げ、踵のすり減った靴を引きずっていると、すれ違う車の窓に、いまは重役になった同窓生などの不審そうな目に出くわすこともある。そんなとき、彼らがいかなる感慨を催すものかいささか気にならぬでもないが、チャップリンの『巴里の女性』のラストシーンよろしく、「世にはさまざまな人生あり」と呟くしかない。神保町の男では漫画にもなるまいが。

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